「ブラジル特報」2025年11月号 (特集)ジョアン・ジルベルト再考より ジョアン・ジルベルトという恒星

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No.1689 2025年11月号
【特集】ジョアン・ジルベルト再考より
ジョアン・ジルベルトという恒星

中原仁 (音楽・放送プロデューサー)
ジョアン・ジルベルトは究極のサンビスタ(サンバ人)だ
そう確信した2003年9月11日の初来日公演初日から、2004年の再来日、2006年の再々来日。
ジョアン・ジルベルトが日本で行なった計14回のコンサート、全公演を聴いたが、ジョアン本人と会ったことはない。
来日を実現した立役者だった宮田茂樹さん(2022年に他界)が何度か、会う機会を設けるよう努めると言ってくださったのだが、僕はライヴを聴いて十二分に満足しているので、お手を煩わせるには及ばないと、感謝の意を伝えて辞退した。
思えば自分は、ジョアンという恒星の周りをグルグル回っている惑星のようなものかもしれない。
それは当時から、ジョアンが旅立った2019年を経て現在まで続いている。
ヴァルテル・ガルシア(サンパウロ大学教授)編著『ジョアン・ジルベルト』

2012年、ヴァルテル・ガルシアの編纂による500ページ超のアンソロジー本『ジョアン・ジルベルト』が刊行された。
時代と国境を超えてジョアンのインタビューやジョアンに関する論評をセレクト、網羅した書籍だ。
日本からは、ジョアン来日公演時に制作された3冊のブックレットから、宮田茂樹さん執筆の「神様の日常」、僕が書いた「ジョアン・ジルベルトをめぐる音楽のトライアングル」(出典は共に2006年のブックレット)がポルトガル語に翻訳、掲載された。
僕の原稿は、ジョアンの音楽世界をサンバ、アントニオ・カルロス・ジョビン、バイーアの三点を軸にまとめたもので、自分のジョアン観を抽出した原稿がブラジルの人々に触れる機会を与えられたことは、誇りでもある。
幻となったジョアンの初期三部作の復刻
2020年の初め、宮田茂樹さんからジョアンへのトリビュート・アルバム、追悼ではなく生誕90年に向けたアルバムを、発案者のマリオ・アヂネーと制作するプロジェクトの話を聞いた。
参加メンバーや選曲のアイディアを求められて提出し、宮田さんからは、制作の現場も手伝ってほしいので一緒にリオに行こうと誘っていただいたのだが、コロナ禍でリオ行きは頓挫。
現地録音はマリオの指揮のもと、主にリモート録音で行なわれ、CD『ジョアン・ジルベルト・エテルノ』(ユニバーサルミュージック)として発売された。
リオに行けなかったことよりも、宮田さんのスタジオでのプロデュース・ワークを間近に見て学ぶ機会を逸したことが残念だった。
もうひとつ、残念なことがある。
以前、宮田さんがジョアンから依頼を受けて行なった、初期の三部作アルバム『Chega de saudade』(1959年)、『O amor, O sorriso e a flor』(1960年)、『João Gilberto』(1961年)の、オリジナル・マスター音源からのリマスタリング(ファーストはモノラル音源)。
これは数年前、すでに出来上がっていたが、ジョアンも宮田さんも世を去った今、世に出る機会を逸し、幻と化してしまった。
拙著『ブラジリアン・ミュージック200』

2022年、ブラジル独立200周年の記念企画として駐日ブラジル大使館文化部からの依頼を受け、書籍『ブラジリアン・ミュージック200』(アルテスパブリッシング)を著した。
ブラジルのポピュラー音楽の名曲200曲を選んで解説した書籍で、当然、作曲家、作詞家を軸に選んでいったのだが、ブラジル音楽においては表現者(歌手、演奏家)もまた、楽曲の創作者だ。
その代表が、ジョアン・ジルベルト。
自身が幼少期から思春期に聴き親しんだ、主にヴォーカル・グループが録音したサンバの古典に、ギター1本でリズムとハーモニーを彩色して曲を再構築し、語りかけるような歌声を通じて曲を洗練させた。
著書のコンセプトからは離れるが、サンバなどのブラジルの曲だけでなく、英語やスペイン語やイタリア語やフランス語の曲に対しても同様。
もはや編曲の域を超えた創造の作業である。
『ブラジリアン・ミュージック200』ではジョアンの偉業に敬意を表し、「ジョアン・ジルベルトが歌ったサンバの古典」と題する章を設けた。
意図したわけではないが結果的に、書籍で紹介した200曲+αの中でジョアンが録音した曲の数は、アントニオ・カルロス・ジョビンらの大作曲家の作品数よりも多くなった。
『ジョアン・ジルベルト読本』

これで一段落、と思っていたのだが、「私を忘れるなよ」といったジョアンのお告げが天から降ってきたのか、2023年の夏、新たな展開がスタートした。
恒星と惑星の距離が近づいた時期だったのかもしれない。
あるカルチャーセンターで、ジョアンに関連した講座を行なった際、初めてお会いしたミュージックマガジン制作部の浜田悠作さんから、ジョアンのアンソロジー本の企画をうかがい、監修の依頼を受けた。
亡きジョアンと真正面から対峙することのハードルの高さに目が眩んだが、コロナ禍、環境破壊、自然災害、戦争など、世界を危機が襲っている時代だからこそ、60年前のジョアンのアルバム・タイトル『O amor, O sorriso e a flor(愛と微笑みと花)』 (注:アントニオ・カルロス・ジョビン、二ウトン・メンドンサ共作「Meditaeao (メヂタサォン)」の歌詞の一節)の精神を見習ってもいいんじゃないか。
そんな思いで、身に余る大役をお受けすることにした。
何よりも世間でのジョアン熱か、没後も薄れることなく続いていることが、勇気を与えてくれた。
2024年4月、レコード・コレクターズ増刊として刊行された『ジョアン・ジルベルト読本』は、監修・中原仁となっているが、書籍のコンセプトや方向性、寄稿していただく方々の人選など、ほとんどが浜田さんのアイディアだ。
浜田さんと話し、ジョアンの音楽を通じて人間性も抽出するが、世の中に出回っているジョアンに関する都市伝説めいたゴシップとはいっさい関わらないことを心掛けた。
ここでひとつ明かしておくと、『ジョアン・ジルベルト読本』の作業を始めた時点で、ズーザ・オーメン・ヂ・メロの著書『アモローゾ ジョアン・ジルベルトの人と音楽』(アルテスパブリッシング)の出版が決まっていて、国安真奈さんの翻訳が進行中であることを知っていた。
資料としても大変に価値のある内容で、だからこそ逆に、この本からの引用を封印しようと決め、原書を開くことをしなかった。
『ジョアン・ジルベルト読本』では大勢のプロフェッショナルの方々に、それぞれの専門の見地から寄稿していただいた。
登場順に、国安真奈さん、福嶋伸洋さん、伊藤ゴローさん、高橋健太郎さん、田中勝則さん。
『ブラジル音楽歴史物語』(ミュージックマガジン)の著者でもある田中勝則さんには、僕の業務が完全にキャパ・オーバーになってしまい、このままでは入稿が締め切りデッドラインに間に合わないことが判明した段階で急遽、ジョアンが録音した「全曲ガイド」の執筆も手伝っていただき、感謝に堪えない。

1977年1月、写真家の土井弘介さんがニューヨークで撮影し、アルバム『Amoroso』に掲載されたジョアンの写真もある。
トリビュート・アルバム『João』を発表、来日した愛娘ベベウ・ジルベルトには、父の思い出を語ってもらった。
亡き宮田茂樹さんがお書きになった、2003年の初来日公演のインサイド・レポート(月刊ラティーナからの転載)もある。
来日公演の音響を担当し、ジョアンから絶大な信頼を得て、全ての日本公演のみならず2008年のブラジル公演(注:これがジョアンの生前最後の公演となった)にも、ジョアン直々の指名を受けて舞台監督の宇佐美敏彦さんと共に日本から向かい担当した音響エンジニア、近藤健一朗さんのインタビューも行なった。
ある意味、ジョアン史に残る貴重な話が聞けたと思う。
ちなみに僕と同年代で、音楽の現場で45年来のつきあいがある近藤さんは、こう話を締め括った。
「音響の仕事を約50年やってきた中で、僕が当初ジャズ系の仕事をやっていてシンセサイザーのことを全く知らなかった20代、79年と80年に行ったYMOのワールド・ツアーで、自分の音響人生が変わりました。
それに匹敵するのが、ジョアン・ジルベルトのコンサートでした。
2003年以降、滅多にできない経験をさせていただき、音響家冥利に尽きる、名誉なことだと思っています」。
ジョアンは恒星、自分は惑星
そんなわけで、ジョアンは恒星、自分は惑星。
ただ最後に、強がりまじりに自慢しておこう。
ジョアンの最初の妻、アストラッド(2023年に他界)とは80年代初め、ブラジル音楽好きのジャズ・トロンボーン奏者、向井滋春さんとのニューヨーク録音のジョイント・アルバム『So & So』の制作をつとめ、ご一緒した。
アストラッドはとてもチャーミングな方だった。
2番目の妻、ミウシャ(2018年に他界)とは、90年代の2度の来日公演、彼女がゲスト出演した小野リサのアントニオ・カルロス・ジョビンへのトリビュート公演(2007年)の制作を行なった。
ミウシャはとてもノリのいい、笑いの絶えない方だった。
ミウシャとの娘のベベウの、90年代の2度の来日公演の制作も行なった。
ベベウはヤンチャなお転婆娘だった。
ジョアンに最も関わりの深い3人と、音楽の制作現場で仕事をしたことで、惑星は少し恒星に近づいたかもしれない。
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