【特集 第2回】ブラジル文化の達人から学ぶ、深い知識と新たな視点 ケペル木村さん
ブラジル特化型サイト「ブラジル コン エス ポント コム」開設記念として、ブラジルにゆかりの深い3人の方に集まっていただき、ブラジルに関心を持つ若い世代に向けてそれぞれのメッセージをいただきました。
第2回は、ケペル木村さんにうかがいます。
Contents
ポルトガル語との出会い
実は僕はポルトガル語、ちゃんと習ってないんです。
40歳ぐらいからほぼ独学。
大学は立教大学に在籍していたのですが、立教にラテンアメリカ研究学科がありまして大学時代は中南米研究会に所属していました。
どうも僕の同級生に佐野元春さんがいたらしいんですが、学校にも頻繁に行ってなかったんで知らなくて。
本当はね、上智に行きたかったんですよ。
今思い返すと、中学生ぐらいからずっと英語が1番なじみがよかった。
洋楽の歌詞を辞書で調べて行く、それを高校ぐらいまで続けてました。
その知識が後のポルトガル語を学ぶ時にだいぶ役に立ったんです。
ドラムとの出会い
音楽との出会いは学生の頃、15歳ぐらいの時、友達の兄貴が買ったドラムを僕に押し付けてきたんです。
しょうがないから叩き始めたんですが、中学3年の2学期という1番大切な時期にドラムの影響で成績が急降下してしまいました。
担任に呼ばれて、どうして君はこんなに成績が落ちたんだって聞かれるんですよ。
「はい、ドラムを始めたからです」なんて言えないじゃないですか。
1968年ぐらいなのでだいぶ昔の話ですが。
そこから音楽が好きになって、特にリズムに関心が出てきたんでしょうね。
とにかく進路は近くの都立杉並高校に滑り込みました。
1969年、70年は学生運動が都立高校にも入り込んできている時代で、学校の中でも何やってもいいみたいな空気感があったんですよ。
僕んちは貧乏だったんで、結局ドラムセットを買ってとかはできなかったんですけど
学校内で先輩がいくつかのバンドをやっていて、その先輩のドラムセットを借りて演奏をしていました。
あの頃は本当にいろんなことをやったんですけど、そのドラムセットを置く場所がないから
校長先生がいないときに、校長室に運んでたたいたりとか(笑)
高校3年の時に同学年にピアニストがいて、ピアノトリオもやりました、そうジャズです。
当時は高校生でピアノトリオは多分あんまりなかったと思うんですけど、そのピアニストの彼がすごくセンスが良くて
いろんなものを選んできてくれて、選曲がとにかく良かったね。
あとはベーシストがいて、3人でグランドピアノのある音楽室に楽器を運んで練習をするんですね。
その時に、ピアノの彼がセルジオ・メンデスの曲を持ってきたんです。
セルジオ・メンデスの曲は日本では普通にアメリカンポップスとして入ってきていたので、それを高校3年の文化祭、杉並公会堂で演奏したんですね。
昔から杉並公会堂ってクラシックの録音に使われるような本格的なところなので音が非常に良かったですね。
ピアノトリオで演奏したんですけど、その時にバチーダみたいのを途中に入れてやってみたんです。
演奏が終わったらものすごい拍手でね。それで人前で演奏する楽しさっていうのを知っちゃったというのがあります。
ただ、そこでやったブラジル音楽はポピュラーなもので、僕がブラジルに本当にハマるのは、それからさらに5、6年後なんです。
ミルトン・ナシメントとの出会い
今も皆さんラジオとか聞いてるかどうかわからないですけど、70年代はFM放送が東京では2つしか聞けなかったんですね。
1つはNHK、先日こちらのチャンネルに出演させていただきましたが、それからもう1つはFM TOKYO。
FM TOKYOの方は 結構面白い感じの番組があったんです。
海外からの輸入版をいち早くかける番組なんですけど、それを毎週チェックしていました。
1976年だから、僕もまだ大学を出るころかな?
そんなにお金もなかったし、たくさんレコードを買えるわけじゃないので、ラジオを中心にいろいろなところをチェックして聞いてたんです。
そこでかかってたのがミルトン・ナシメントだった。
ミルトン・ナシメントの音楽を初めて聞いて、もう鳥肌なんてもんじゃない、表現できないほどの衝撃を受けたんです。
クラシック音楽の、特にバロックの影響と、教会音楽、さらにビートルズ、ジャズ、アフロ、今まで聞いてきたジャンル全てが1曲の中に集約されていたんです。本当に衝撃的でしたね。
こんな音楽があるんだったら、この彼の音楽だけを聞いてりゃいいやっていう。
1976年当時、吉祥寺駅のそばにレコード屋があったんですけど2階のフロアを使って輸入盤がぴっしり入ってたところがあって、そこにすぐ探しに行きました。
「これだ!」って見つけてね。それからは毎日毎日、毎日毎日、そればっかり、そればっかり、本当にそればっかり聞いてました。
それくらい気に入っていたんですけど、 まさかそのミルトン・ナシメントさんとずっと後になって会えるとは夢にも思わないですよね。
彼の家にまで招待されたりいろいろ一緒にやってると、当時からは想像も付かないことがあるもんだなあと思うんですよね。
きっかけはミルトンがニューヨークでライブをやると聞いて、ミルトンを生で観たくてニューヨークまで追っかけて行ったんです。
ニューヨークのコンサートは本当に素晴らしくて、その会場にクインシー・ジョーンズやポール・サイモンも連れてきたりしていてね。
そういう時代だったんです。
これはもう、ブラジルに行って、ブラジルというところを自分の目で見るしかないと決意しました。
それから半年後にブラジルへ行くことになるんですが、僕はポルトガル語をちゃんと勉強してなかった。
辞書は買ってあったんだけど(笑)
ケペルさんブラジルへ
ブラジルへ行くきっかけを作ってくれたのは、実は今はもう無くなりましたがプラッサ・オンゼという店なんですね。
日系ブラジル人の女の子2人、 今では2人とも立派な60代ぐらいのおねえさんになってると思うんですけど。
その日系人たちが、当時研修に来てたのかな。ゲストワーカーじゃなくてね、ゲストワーカーのブームが始まる何年か前ぐらい。
それでジルベルト・ジルのライブを見に行った帰りにプラッサ・オンゼに寄ったら
そこで偶然その日系ブラジル人の女の子たちと知り合って
「私たちは今こっち(日本)にいるから、実家(ブラジル)の部屋が空いてるから使っていいわよ」
みたいな感じで、すごく気軽に言われて、本当に大丈夫なの?って思いながらも、
なるべく一緒にご飯を食べたりする機会を増やして、こっちのこともわかってもらって
向こうのことも知ってという運びで、ついに1986年12月15日にブラジルに旅立つんです。
ほとんど言葉なんか全然分からない状態で。
日本人って文法とかそういうのはバッチリなんだけど、僕らの頃って英語を話す授業がなかったんで
話す機会がなかなかなかったんだよね。
話たり、聞たりができなかったんだけど、でもニューヨークに行った時も1週間ぐらい1人で動いてたら
なんとなく結構言葉も伝わってくるようになるし、それがなんか面白いなって思ったりしていたんですよね。
航空券は大韓航空でロス行って、ロスでパンナムに乗り換えてマイアミ、ペルーのリマ、サンパウロ…40時間ぐらいかけてようやくブラジルにたどりつきました。
途中何があるのか分からなくなりながらも着いたら、季節が全く反対で、空港には日系人の親戚の人が迎えに来てくれたんです。
ポルトガル語の学び方・ケペル編
とにかくブラジルでの生活はよかったです。3回ぐらいミルトン・ナシメントのライブを観ることができましたし。
そろそろノルデスチ(ブラジル北東部の地域)に足を伸ばしてみようかなと思って。
サンパウロに日系の旅行代理店があって、そこだと日本語でなんとかなるというので
行ってみたらサルバドールで何日間みたいなツアーのパンフレットがあったんですよ。
あんまりよく知らなかったんでサルバドールも行ってみたいと思ったんですけど、もう2月、3月は売り切れで。
そこで他にサルバドールに行けるツアーがありますか?って聞いたら、たまたま2週間のツアーがあったんですよ。
当時1ドル150円から160円ぐらいの時に、1,000ドル(約16万円)以下でした。
もしこれからブラジルに行く人は参考にしていただきたいんだけど、ブラジル人のパッケージツアーに言葉がわからない人間が入るわけです。
周りの人たちは全員ブラジル人でしょ。必然的にポルトガル語を聞いて、それを話さなくちゃならない。
2週間、ポルトガル語の試練に自分を落とし込むことができる、実はこれで結構身についたんですよねポルトガル語が。
でも辞書は必ず持っていって(笑)
ブラジル人って、みんなお世話が好きっていうのかな、ある意味ではお節介だから
買うためにどこそこに行こうとか、踊りに行こうとか。
言葉はね単語だけちょっと調べればわかるでしょ。
それで、夜一緒に遊びに行ったり、ご飯を食べたりして、辞書を片手に少しずつコミュニケーションを取っていったんです。
その2週間っていうのはすごく意義がありましたね。
帰ってきてから、今度は1人でカーニバル直後のリオに乗り込んだりしてね。
チェックインも全部ポルトガル語でやれちゃったくらいに成長していました。
そういえば面白いことがあってツアーから帰ってきたら、日系人のお世話になってた人が
「あんた誰?ケペル?顔が全然違う!」って言われました。
日焼けやひげも伸ばしてたのもあるんけど、話せることが相当大きな自信になったんですよね。
本当にささいなことなんだけど、ブラジルの中で1人で動けるようになったのは大きかったです。
1人でリオに行って、リオですごいミュージシャンたちとばったり会って、セッションまでして
それがトニーニョ・オルタだとかね。そういった人たちに出会えたりするようになっていったんです。
またある時、ミルトンのコンサートの後、国際空港で荷物を待って自分の乗車ゲートまで歩いていたら
途中で「はっ」と、なにかが聞こえた気がしたんです。
なんだろうと、ふっと見たらもじゃもじゃ頭が見えたんです。
こっちを背にして座ってたんだけど、それがミルトン・ナシメント本人だった。
トレードマークの帽子は脱いでたんだけど「ミルトン・ナシメントさんですか?」って聞いたら
「そうだ」っていうんです。
「あ、昨日とおとといのライブを観に行きました。その前にニューヨークでもライブを観て、
大好きです、ぜひよかったら日本に来てください」って言ったんです。
その翌年、1988年にミルトン・ナシメントさんが初来日公演をしてくれたんですね。
ブラジル音楽の聴き方
1986年から87年にかけて、私はレコード店の店長をやってました。
小さい町のレコード店なんで、それこそ松田聖子さんの曲とかが店内でかかっていました。
音楽はなんでも好きだったんで、まあいいかって。
今でも高円寺にネルケンっていう64年以上続いてる名曲喫茶店があって
高校時代はそこでグレゴリオ聖歌を初めて聞いて電流が走りながら、吉祥寺に行ってはジャズを浴び、
歌謡曲も好きだったし、なんでも好きだったんです。
だからいろんな音楽を聞いてきた人ほど、ブラジル音楽がわかりやすいなと思う部分ってあるんですよね。
よく若い人からブラジル音楽をどっから聞いたらいいかわかんないって言われるんだけど
いろんな音楽を聞いてくると、ブラジル音楽は実はあっちこっちに入り口があることが分かるんです。
でも、出口がないの(笑)
1度入ったらはまって出ることはない、そんな深い部分がブラジル音楽にはあると思う。
今だったら いろんな情報も手に入りやすいですが、僕らの頃は本当に情報もなかったので。
だから80年代、90年代ぐらいはタワーレコード、hmv、ディスクユニオン
もう無くなったヴァージン・メガストアとかに、こまめに営業に行って日本全国に
ブラジル音楽のCDが流れるようにする仕事をしていました。
それをメインにしてて、その関係でどうしても音楽の内容を書かなきゃいけないから
当初は音楽について書いてお金をもらうなんて全く考えてはいなかったんですけど
ただやっぱり誰かが説明しないとブラジルのことは伝わらないから、今みたいなネットがなかったから余計にね。
レコード店さんに注文書ファックスを日本全国1,000店舗ぐらい送るんです。
気に入ってくれた店舗からオーダーがあって、それをブラジルに発注して、輸入して
それを売ってっていうサイクルがメインの仕事でした。
だから僕は音楽からブラジルに入って、今でもブラジル音楽のことをいろいろやれているのはありがたいんです。
音楽はなんと言っても聞くところから
音楽のことについて最後に1つくらい言っておくとするならば、やっぱり音楽だから聞かないとダメなんですよね。
音楽を知識として情報を知ったりするのとは少し違うのかなと。
僕は演奏する立場にもあるんでなおさらなんですけど。
例えばCDの解説、レコード会社さんに頼まれて書く時も、最低50回ぐらいは音源を聞いてる。
下手するとそれを作ったアーティストよりも聞いたのかもしれない(笑)
いろんなシチュエーションで配信やCDを聞いたり、家で聞いたり
友達のところで聞かせてもらったり、CDプレイヤーで聞いたり、飲みながら聞いたり
それによって同じ音源でも聞こえ方が変わるんですね。
それらの環境で聞いて自分の中から出た言葉をその都度メモにとっておいて
最終的に3000字とか4000字に落とし込む、そういう風にしてるんですけど
とにかく聞いて聞いて聞きまくるのが僕のやり方ですね。
音楽の理解の仕方なので、皆さんが全員そうしなきゃいけないわけではないんだけど
さらっと聞いて終わるんじゃなくて、やっぱり最低でも10回ぐらいは聞いてほしい。
僕は40歳から独学でポルトガル語をある程度身につけることができたんですけど
それは仕事がそういう場所だったからで、朝から晩まで会社に行って
仕事しながらガンガンにブラジル音楽を聞いてて良かった環境だった。
インターネットができてからは積極的に知り合った人たちとやり取りもしてきましたね。
そういう意味ではコミュニケーションを取るのが好きなのかもしれない。
音楽も1つのコミュニケーションだよね。
演奏でいえば、この前エイトール・メンドンサさんがブラフェス(ブラジル&ラテンフェスティバル)に来日されて初めて会ったのが当日、その日のステージで共演をしたんです。
一緒に30分ぐらい演奏させてもらったんですけど、別にこっちも慌てないし、どんな感じでやるのかなっていうのは、ちょっと聞けば大体飲み込めるんで。
そのまま一緒に演奏するんですね。
そういうのが好きなんですね、やっぱりこうお互いに感じ取るものがあったりするのが音楽のだいごみだと思うし。
ブラジル人の優しさもあるけど、こちら側も心を開いて、向こうの人を受け入れる。
そうすることで、向こうの人も受け入れてくれる、そういう感じです。
この感じは本当に、ブラジルに行ってみて初めて体験したことだからね。
こっちが手を広げると、すっごいきれいなお姉ちゃんでも一緒に手を広げてきてくれて、飛び込んできそうになる。
こんな、世界があったんだと衝撃を受けました。
なんかそういうやり取り、それこそが人生のだいごみですね。
ブラジルに関心を持つ若い世代の人たちへ
だから言葉が最終的な目的ではないと思うんですよね。
言葉は手段であり道具だから、その道具は確かに磨きをかけた方がいいんだけど、それにあんまり囚われないでほしい。
どうしても日本人って文法から入っちゃうんだよね。
文法だとか、男性名詞、女性名詞がどうのこうの、実はそんなものはどうにでもなる。
向こうの人たちはちゃんと理解してくれるわけだから。
そんな細かいことは気にせず、どんどんと単語を並べるだけでもいいんです。
僕はその後、仕事でブラジルに行ってブラジルでCDの交渉とかもやりました。
そこで、散々痛い目にありましたよ。でも、やっぱり失敗しないと身につかないと思うんですよね。
その中から自分なりの交渉の仕方や、相手のやり方にこの時こういう言い方をするんだとかね
少しずつ学んでそれをすぐ実践していく。
リオのレコード会社での失敗とかは、とても言えないような失敗で多分相当お金を無駄にした部分もあるかもしれない。
でも、それが今もって役立ってるなと実感しています。
当たって砕けろって言葉があるの知ってるでしょ?
どんどん踏み込んでいったからよかったわけで。
やっぱり自分が1歩踏み込まないとね、相手が認めてくれない部分ってあるんですよ。
音楽もそうですけど、自分が出していく音があるから、それにみんなが乗っかってくる。
サンバもそうです。
どんなことにもそういう部分もあると思うんですね。
だから、まずは皆さん、前乗りに踏みこむ勇気で挑戦していってください。
『阿佐ヶ谷生まれで阿佐ヶ谷育ちの音楽ライター、70歳。ザブンバをたたいています』
ケペル木村さんは都立高校出身で、大学時代は中南米研究会に所属していました。ブラジルでの生活経験を通して、ブラジルの地域性や文化の多様性を学びました。その後、ブラジル音楽の紹介や文化交流活動に携わるようになりました。