【特集 第3回】ブラジル文化の達人から学ぶ、深い知識と新たな視点 岸和田仁さん
ブラジル特化型サイト「ブラジル コン エス ポント コム」開設記念として、ブラジルにゆかりの深い3人の方に集まっていただき、ブラジルに関心を持つ若い世代に向けてそれぞれのメッセージをいただきました。
第3回は、岸和田仁さんにうかがいます。
ポルトガル語との出会い
高校時代を振り返ると、学生運動が非常に盛んな都立大附属高校(現在の桜修館中等教育学校という中高一貫校)に通っていたんですね。
その高校の歴史の先生に、後に大学の教授になる方がいて、今思い返すとその先生の授業から私自身大きな影響を受けていると思います。
その先生はアラブ文化の専門家だったんですが、世界史の授業中に「教科書のこれは違うよね」って「教科書をこう書き直しなさい」って、そういう授業が面白かった。
その先生の影響もあって、英語も好きだったんですが、大学ではアラビア語を勉強しようと思ったんです。
当時インターネットもないので、本などを調べてみたらアラビア語はどうやらめちゃくちゃ難しい。
筆記が右から左に書く特有の文字も難しいし、口語もアルジェリア系とエジプト系とで異なるし、文語も違う。
さらに文法もややこしいし、ちょっとしんどいな、と思ってくじけてしまいました。
文字を覚えなくても済むのはアルファベットの言語ですが、かといって英語やドイツ語なんていう大国の言語は面白くないなぁと思い、もう少し小さい国の言葉を探していたんです。
そこで候補に上がったのがイタリア語とポルトガル語。イタリア語はイタリアだけでしか話されていないけど、ポルトガル語だったら、ブラジルやポルトガル、アフリカでも話されているのでポルトガル語を選びました。
そんなレベルで私はポルトガルを選んだものだから、主体的に音楽が好きだったとかは全くないんです。たまたま言語で入ったという感じですね。
大学の授業も、少し斜に構えて、どちらかというと批判的に聞いてた方でしたから(笑)
学生時代に中南米研究会っていうクラブ活動をやってたんですね。
主にブラジル研究じゃなくて、どっちかというと古代マヤ文明だったり、ハイチの独立とか。
いわゆるラテンアメリカにおいての最初の独立国ってハイチなんですね1804年頃の。
ハイチ独立は1804年、中南米で最初の独立で、黒人奴隷たち自身が立ち上がって反乱を起こし奴隷制を廃止させた独立闘争で、非常に先駆的なものなんですけど、そんな怪しげな論文を書いていました。
だから当初はブラジルに自分はそれほど興味がなかったんですね。
当時興味があったのはポルトガル領アフリカ諸国の独立闘争を支援するような運動とかね。
基本的に私も左がかってた学生でしたから、アパルトヘイト反対運動をやるような。
その関係で、ギニアビサウの革命思想家アミルカル・カブラル(Amilcar Cabral)っていう有名な人の翻訳をしたり、アンゴラだとかモザンビークの独立宣言のことを日本語に訳したのは、実は学生時代の私が最初なんですね。
ただそんなことをやっていては当然飯なんて食えないんですね。アカデミズムに対して批判ばかりしてたんで、その後の進路に大学院は選ばないですよね。
ブラジルとの出会い
じゃあ何をやるかってなったとき、出版社に行こうかと思ったんです。
でも当時出版社は競争率が大体50倍か100倍で、非常に高かった。
某大手出版社の例を出すと75倍だったんですね。だいたい1,500人受けて20人くらい。
私のいた東京外国語大学でも50人受けて、最終的に受かったのが1人だけだったんです。
一次試験のペーパーで通ったのが1,500人から150人になって、東京外語大学からは50人受けて3人になったんですが、最終面接にまで行ったのは私と中国科の2人だけでした。
最後で私も落とされて、内定は中国科のやつ1人だけかっていう、そんな感じでした。
私は4年の時にアルバイトばっかりしてて、結局大学に5年もいたんです。1年間大学で遊んでたもんですから更にもう1年いるわけにはいかないんで、しょうがねえから就活をして、なんとか某大手コンピューター会社と某食品メーカーの2つから内定をもらいました。
どうせ行くんだったら、わけのわからないコンピューター関連でサンパウロに行くよりは、ノルデスチのど田舎に行けそうなニチレイっていう会社を選んだんですね。
当時の部長だとか人事部長をうまく騙せればブラジルに行けるっていうのがあって、入社後は清く正しい新入社員を演じ続けて3年目にして「お前ブラジルに行け」ってことになりました。
当時、ニチレイっていうのはですね、日本では加工食品だとか冷凍食品なんですけど、ブラジルでやっていたのはお魚屋さん、水産業なんです。
最初マグロをやってて、マグロが儲からなくなったんで、伊勢海老やクジラをやっていました。アマゾン河口では海老を取って、クジラはパライバ州っていうレシフェ(ペルナブーコ州)の北隣りに基地があって、そこで沿岸捕鯨をやってたんですね。
私の最初の仕事はクジラ関係とか開発のお魚関係、エビの検品だとか、そんなことをしていたんですが、そのおかげでお魚や特にエビがいるようなところは北から南までうろうろすることができたというのがよかったですね。
例えば同じ魚の名前でも北と南で呼び方が違うなんてのは面白いんですよね。
日本でも地方によってクロダイ(関東)って言ったりチヌ(関西)と言ったりという違いがあるじゃないですか。
それと同じように、魚のスズキなんかは北部・北東部ではカモリン(camurin トゥピー・グアラニー語起源)、南部ではホバーロ(robalo ポルトガル語起源)これはもうポルトガル語から来ていて、じゃあその境目はどこなのかと。
ある日バイーヤに出張した際にサルバドールはしょっちゅう行っていたんで、あえてポルト・セグーロまで足を伸ばしてみました。
ポルト・セグーロという場所は、15世紀のポルトガル王国の探検航海者ペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルを発見し初めて上陸した地なんですが、ちょうどそこが呼び方の境目だったんですね。
ブラジルでもインディオ系の名前のものなのか、ポルトガルから来た名前のものなのか、自分の足で調べられるのは面白いですよ。
会社のお金で出張してそんなことばかりやってたんですけど、そういう語源を仕事を通じて知ることができたのは非常に良かったと思っています。
レシフェに3年ちょい、そしてパライバ州の州都ジョアンペソア(João Pessoa)、捕鯨場の近くですね。
更にその後はサンパウロに5年滞在していました。
そうこうしているうちに、捕鯨禁止になって代わりになる何かを探していた時に上がってきたのが「アセロラ」っていうビタミンCが多いフルーツだったんです。
サンフランシスコ河っていうブラジルでは3番目に大きい2,700キロぐらいある河なんですが、アメリカのカリフォルニアをモデルにしたペトロリーナ地区での灌漑(かんがい)農業を、そのサンフランシスコ河の中流域で行うんですね(1960年代末に最初のプロジェクトが開始、本格化は80年代後半から)。
具体的な地名で言うとジョアン・ジルベルトが生まれた、あるいはイベッチ・サンガロが生まれたジュアゼイロという場所のトイメンにあるペトロリーナという場所ですね。60年代末はそこではぶどうやマンゴーの生産が行われていて、例えばマンゴー生産量ですがブラジル全体で110万トンほど、その約5割(55万トンほど)がペトロリーナ地区で収穫しています。
そこでアセロラをやろうというプロジェクトの責任者をやっていたこともありました。
そういった経緯で、海岸地方から奥地の方までうろうろと16年もの間ブラジル滞在を続けていたんですね。
その後、一度日本に戻って、また2回目、3回目と、合計21年駐在しました。
ノルデスチが大体で15年、サンパウロが6年、地域的に分けるとそんな感じです。
実際にいろいろな場所に住んでみて、それぞれの違いが頭より体や胃袋で分かったていうのが大きかったですね。
もう1つ面白いのは、同じペルナンブーコという州でも、暑いところっていうのは四季がないんですよね。
日本の大学のポルトガル語授業では、インベルノは冬って教えるんですが、そうじゃないんです。
熱帯に冬なんてないんだから、結局インベルノとはなんなのか。
「雨季」のことなんですよ。雨が降る時期はインベルノなんですね。
ポルトガル本国はインベルノ=冬でいいんです、温帯だから。
だけど熱帯地方のインベルノは冬じゃない。本来は雨季って教えなきゃいけないんです。
でも大学の教育ではそういう違いをやらない。
更にペルナンブーコ州の中でもインベルノの時期が全然違っていて、レシフェは大体5月から11月が雨季なんですが、同じ州の600キロ入ったペトロリーナは、インベルノっていうと10月から5月ぐらいを指すんですよ。
同じ州で全く異なるので、最初私は頭が混乱しました。ちょっと待てと、レシフェとペトロリーナでは全然違う、全く時期が逆転してますもんね。
一言でノルデスチって言っても、全然違うのは住んでみたからわかったっていうね。これも会社のおかげですね。
昔、少し文章を書いていた経緯もあって、それがやがてラティーナっていう雑誌で書くようになりまして、そのうちに週末ライターみたいなことをやって、ウィークデーは清く正しい企業駐在員をやって、週末は作家もどきを自称していたんです。
それですごく面白かったのは、ラティーナの社長本田さんに勧められて、ある日シコ・セザールのインタビューをすることになったんです。
彼はパライバ州の出身なので話がすごく盛り上がって、見た目は美男子ではないのだけど、話すとすごくインテリなんですよね。パライバ州の田舎からこんな知的な人が出てくるというのがものすごく意外で、インタビューから面白い発見ができたというのはラティーナのおかげですね。
その延長で、もともと私は映画が好きで映画に関する記事を書いてたので、ネルソン・ペレイラ・ドス・サントスという、いわゆるグラウベル・ローシャと並んで、シネマ・ノーヴォの立役者の1人にインタビューすることができたんです。
ネルソン・ペレイラ監督の「乾いた人生(Vidas Secas)」とグラウベル・ローシャ監督の「黒い神と白い悪魔(太陽の土地の神と悪魔)」はフランスのカンヌ映画祭で認知され、高い評価を受けました。
ネルソン・ペレイラ監督は日本に4回来てるんですけど、そのうちの3回は私がインタビューしてるんですね、残念なことに彼は3年前に亡くなってしまいましたが、それができたのもラティーナのおかげ。それらを集めて本にしちゃったりしました(笑)。
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その流れで、4年前カエターノ・ヴェローゾの『熱帯の真実』(熱帯の真実)を国安真奈さんがかなり苦労して翻訳された時の解説を、音楽の部分は中原仁さんが書いて、音楽以外のカエターノの哲学者的な部分の体系説明みたいな部分を私が書くに至っています。それ以外にもブラジルの歴史の本を書いたりしています。
何はともあれ若い頃の夢だった物書きになれたのもブラジルに駐在していたからこそできたことですね。
執筆の際は本名で書いて執筆料をいただいてましたので、今だと副業規定違反に当たるでしょうけれど、当時はなんとか大丈夫でしたね。流石に本が出た時は言われましたけどね。「面白かったよ」って。普通の会社だったら糾弾されてたでしょうけど。
ブラジルに関心を持つ若い世代の人たちへ
生活者としてブラジルを体験できたのは、面白いことで、何度も言いますけどやっぱ頭だけじゃダメで、やっぱり体と胃袋で感じないと、特にノルデスチはわからないなと、今でも思ってます。
南は南で、またすごく面白くて。
とくに音楽が豊か、サンバもそうだけど、バイーア音楽、まさにさっきのお話(第2回ケペル木村さん)に出てきたミルトン・ナシメントも、人種的には黒人と言われる人たちがブラジルの豊かな音楽を作ってきた。
それはなぜかっていうと、黒人奴隷が1番輸入された国だったからですね。
その他にもイタリア系や、日本もそうだしアジア系、アラブ系も入って、世界で1番ごちゃごちゃになったっていうのが、何はともあれブラジルの文化を面白くしたっていう、これは間違いないですね。
それは切り口をどこにしても面白い。文学だけで見ても面白いっていう、その辺のジャンルごとのバラエティの高さっていうのがありますね。
ポルトガル語あるいはブラジルの勉強をされるという時には、それこそ自分の面白いと思うことから、まあ1番入口としてわかりやすいのは音楽かなとは思うけど、そういった様々な入り口が広く開けているのはブラジルの特徴的で面白いところだなと思います。
最後に、ジョタ・ボルジェスという人間国宝のような有名な版画家がなくなったんですが、その方の18人目の息子パブロさんが版画家のJrとして活躍されていて、彼のワークショップをやったのが西荻窪にあった頃の「アパレシーダ」なんですね(現在は高円寺で営業中)。
音楽をはじめとしたブラジル文化の交流場がこの日本にいくつもあるので、こういった場所をぜひ若い人たちにもっと活用してもらいたいですね。
岸和田仁(きしわだ ひとし)さんのプロフィール
1952年東京生まれ、1976年東京外国語大学ポルトガル語科卒、企業駐在員として三回、のべ21年間ブラジルに住む(ノルデスチ、サンパウロ等)。現地法人(熱帯果実加工事業)の工場長、統括取締役、監査役など歴任。
ライターとしては、20年以上にわたって月刊『ラティーナ』などに書評、文化短信、ブラジル論など寄稿(インタビュー記事はネルソン・ペレイラ・ドス・サントス、カカー・ディエゲス、シコ・セザールほか)、2014年より隔月刊情報誌『ブラジル特報』編集人、日本ブラジル中央協会常務理事。
著書に『サンフランシスコ河中流域日系人入植小史』(1994年)、『熱帯の多人種主義社会』(2005年、つげ書房新社)、『ブラジルの歴史を知るための50章』(共編著、明石書店、2022年)、『食文化からブラジルを知るための55章』(共編著、明石書店、近刊予定)など。翻訳書(共訳)、アミルカル・カブラル『アフリカ革命と文化』(亜紀書房)。
校訂・執筆補佐:『プログレッシブ ポルトガル語辞典』(小学館、2015年)。解説執筆:カエターノ・ヴェローゾ『熱帯の真実』(アルテスパブリッシング、2020年)、など。