憧れのブラジル航路 第4回

昭和時代に日本でリリースされたブラジル音楽のレコードあれこれ

第4回 ダンシング・イン・ザ・ドリーム

ダンシング・イン・ザ・ドリーム

アーティスト: ラウル・デ・バロッソ楽団
原題:Midnight In Ri
発売会社:東芝音楽慈雨業株式会社
レーベル:Angel Records
品番:HW 1078
録音年:1960年頃?
発売年:1960年頃?
価格:1000円

さて、第4回で取り上げるのは1960年、昭和35年にリリースされたこの作品。公務員の月収が1万3千円と言いますから現在の物価は15倍近く上がっていますね。この年大ブレイクしたダッコちゃん人形は180円だったそうで今の物価だと3000円弱、本放送が始まったカラーテレビは50万円近くしたそうで、今だと700万円以上でしょうか。なかなか想像できないですね。
レコード盤(アルバム)は長らく2000円前後で販売されていましたが、今の物価だと2万円以上。なかなか気軽に買えるものではありません。そこで考えられたのがミニアルバム。曲数を減らして安くしました。本作もオリジナルのブラジル盤から2曲減らした10曲入りの10インチ仕様となっています。赤色のカラー・レコードになっているのは何気に嬉しいところ。
アーティスト名は「ラウル・デ・バロッソ」表記ですが、現在ではハウル・ヂ・バホーゾ表記が一般的に馴染んでいるでしょうか。戦後のリオデジャネイロでアメリカのビッグバンド・スタイルのジャズとブラジルのショーロを融合して人気となったトロンボーン奏者です。ショーロ好きなら「ナ・グロリア」の作者と言えば知っている人も多いかと思います。19世紀中期に誕生したショーロは20世紀に入りピシンギーニャを中心に大流行しましたが、やがてサンバや欧米の音楽に人気の座を明け渡してしまいました。ハウルは米国のビッグバンド・スタイルを導入しショーロ楽曲を演奏、観客はその迫力あるビッグバンドアレンジのショーロ曲でペア・ダンスを踊りました。これは「ガフィエイラ」と呼ばれて大ブームを起こしました。米国のペア・ダンスに「サンバ」と呼ばれるステップがありますが、ブラジルと全く関係ないということはなくそのルーツは実ブラジルにあります。ガフィエイラは米国で演奏されていたビッグバンド・スタイルのサンバが逆輸入的にブラジルに入ってきて更に進化、発展した経緯があります。(これ掘り下げると面白いですが、長くなるのでまた別の機会に。)

ダンシング・イン・ザ・ドリーム

収録曲を見ていきましょう。オープニングの「パーフィデイア」はメキシコの作曲家アルベルト・ドミンゲスの作曲。米国では「トゥナイト」のタイトルで親しまれています。2曲目は不朽のジャズの大スタンダート、「スターダスト」。3曲目はブラジルのアリ・バホーゾの名曲「ノ・ランショ・フンド」をボレロ調に、4曲目はジャズの名曲「オール・ザ・シングス・ユー・アー」、A面最後はキューバの大作曲家エルネスト・レクオーナ作曲の「アンダルシア」。
B面に裏返してまずは映画にもよく使われる「アイム・イン・ザ・ムード・フォー・ラブ」、続いてラテン・ボレロの「キエレメ・ムーチョ」、1930年代に映画の主題歌として使われた「テンプテイション」、ブラジルのフェルナンド・セーザル作でアゴスチーニョ・ドス・サントスも歌ったボレロ「トドゥ・オウ・ナダ」、そして最後はショパンの「別れのワルツ」で締めています。
こうやって聴いていくとこの作品があえてブラジル楽曲を強調することなく当時世界中で流行していた軽音楽から選曲していることに気づかされますね。ジャケットも当時よくありがちな美女が佇むスナップ写真(笑)。ひとつ残念だったのはカットされた2曲のひとつにトム・ジョビンの「エウ・セイ・キ・ヴォウ・チ・アマール」があったこと。これは入れておいて欲しかった!(もう1曲はエディット・ピアフの「愛の賛歌」。)まだボサノヴァが日本に本格的に上陸する前、当時の日本側のレコード会社社員はトム・ジョビンがここまで重要人物になるとは気づかなかったんでしょうね。

ダンシング・イン・ザ・ドリーム

ダンシング・イン・ザ・ドリーム

カットされたトム・ジョビン作「エウ・セイ・キ・ヴォウ・チ・アマール」

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