【新連載】日本で知られていないブラジル音楽の巨星たち

Serie1 オス・デモニオス・ダ・ガロア 第1回

現在のオス・デモニオス・ダ・ガロア/2023年5月サンパウロ 撮影:Willie

ブラジル最大の人口を誇り今日も世界有数の商業都市として発展を続けているサンパウロ市。1554年、バンデイランチンスと呼ばれる奥地探検隊が中継基地として利用するために標高800mの山脈の原生林を切り開いて築かれたサンパウロ市は、長きにわたり長閑な集落だった。18世紀にコーヒーが一大産業となるとコーヒー農園経営で成功した富豪が続出、その後1888年の奴隷解放宣言を経て近代工業の時代に入った20世紀初頭頃より急速に都市化が進んだ。電気、水道、ガス、電話、鉄道、自動車用道路といったインフラが整備され、幾つもの巨大な工場が建立されると大量の従業員を雇って操業を始めた。労働力が不足したサンパウロは国外からの移民が万単位で流入、1910年の調査ではサンパウロ市民の2人に1人は海外からの移民で、4人に1人はイタリア人だったという。
時は流れ1942年、ブラジルは連合国軍に加わり第2次世界大戦に参戦、戦地とならなかったブラジルは戦争特需で好景気に沸いていた。この頃サンパウロを中心に経済や文化の面において大きな影響力を付けていたイタリア系ブラジル人コミュニティは、イタリア語の禁止など若干の制限が課せられたものの、敵対国としてのマイナス的な影響はほとんどなかった。(一方、日本移民に対しては日本語学校の閉鎖、日本語新聞の廃刊、一部地区では収容所送りも行われた。)ピザやパスタ、モルタデーラ・ハム、パネトーネといったイタリアから伝来した料理はサンパウロの食卓にすっかり定着していた。

1940年代のサンパウロ(Wiki)

イタリア系移民が多く住み商業エリアとしても知られるサンパウロ市モーカ地区に生まれ育ったサンバ好きなアルナルド・ホーザというイタリア移民2世の少年が、同じ年頃の近所のサンバ好きな少年たちを自宅に集めてはサンバの練習を始めた。リオデジャネイロで誕生したサンバはサンパウロでも大人気で、フランシスコ・アルヴェスやオルランド・シルヴァ、そしてアンジョス・ド・インフェルノやナモラードス・ダ・ルアといったサンバ・コーラス・グループなどのヒット曲を毎晩のように練習していた。サンパウロではムジカ・カイピーラと呼ばれているインヂオ由来の民謡は盛んに歌われていたが、リオのサンバを演奏している者はまだまだ少なかった。噂を聞いたベレンやブラスなど近隣地区に住むサンバ好きの少年たちもこの練習会に顔を出すようになった。毎夜のように集まっては練習や音楽談義に夢中になっているうちに、ごく自然な流れで彼らは男声コーラスのグループ結成を思いたった。リオのグループと違っていたのは、彼らがイタリア移民2世であり、本人たちは気づかないままイタリア語訛りのポルトガル語で歌っていたことだ。

1940年代に撮影されたアーティスト写真(Wiki)

1943年に入るとメンバーが定まった。アルナルドがヴォーカルとパーカッション、アントニオとベネヂートの兄弟はタンタンとアフォシェ、パンデイロのブルーノ、弦楽器にはギターのワルデマールとテノール・ギターのゼジーニョが結成当初の顔ぶれとなった。12歳から14歳までの6人はリハーサルを繰り返し、レパートリー曲を増やしていった。バンド名をグルーポ・ド・ルアール(月明かりのグループ)に決めると本格的に音楽活動をスタートした。地元のフェスタや友人宅のパーティーで流行していたサンバやセレナーデを歌っては評判を集めた。彼らのイタリア語訛りのポルトガル語歌唱は、同世代はもちろんのこと親世代である移民1世、イタリア系同胞の心を惹きつけ、次第に大きなステージにも呼ばれるようになった。しかし未成年ということもあり正当なギャラを受け取ることはほとんどなかった。

アヴェニーダ・サン・ジョアン(当時の絵葉書より)

1944年、親戚や先輩格のミュージシャンからアドバイスを受けたグルーポ・ルアールの面々はラジオ・バンデランチスの新人発掘オーディション人気番組「ア・オラ・ヂ・ボンバ(爆弾の時間)」に出演するチャンスを得た。グルーポ・ド・ルアールは見事グランプリを獲得、週2回のラジオ番組レギュラー出演、そして同時にラジオ局の社員として働く権利を手に入れた。(*1)
1年後の1945年、ラジオを通してサンパウロ中にその名を轟かせるようになったグルーポ・ルアールは有名司会者ヴィセンチ・レポラーセが担当する番組に度々出演した。ヴィセンチは番組内で彼らを紹介する時に「デモニオス(悪魔)が来たぞ」(*2)とマイクに向かって叫んだ。彼らのことを気に入っていたヴィセンチは、ルアールというグループ名が時代遅れで地味だと感じていた。ある時、ヴィセンチはラジオのリスナーから新しいグループ名を公募した。数百通の応募の中から「ガロア(霧雨)」が選ばれた。サンパウロの俗称である「テーハ・ダ・ガロア(霧雨の大地)」から引用した単語だ。ヴィセンチは「デモニオス」と繋ぎ、彼らに「オス・デモニオス・ダ・ガロア(霧雨の悪魔)」と新たなグループ名を授けたのだった。それは今日に至るまで続く80年の歴史がスタートした瞬間だった。

*1ラジオ局と契約後、プロの音楽家への道を断念したワルデマールとゼジーニョが脱退、別のグループで活動していたトニーニョことアントニオ・ゴメス・ネト(テノール・ギター)、アルトゥール・ベルナルド(6弦ギター)、フランシスコ・パウロ・ガロ(タンタン)が加入、1947年にアルナンドの弟クラウヂオ(パンデイロ)が参加、これをもってオリジナル・メンバーと定義するメディアも多い。他のグループと掛け持ちしていたり、加入後数か月で辞めた人物も存在しており、まだ録音のないこの時期のメンバーの厳密な特定は困難となっている。
*2直訳では「悪魔」という意味だが、「いたずらっ子」というニュアンスもある。

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