【訃報】ドリヴァル・カイミの娘、ナナ・カイミが84歳で死去

IMAGO © 2025


歌手のナナ・カイミが5月1日(木)に84歳で逝去した。

ブラジルの国民的作曲家・歌手ドリヴァル・カイミの娘であり、作曲家・歌手のドリ・カイミと、アントニオ・カルロス・ジョビンが晩年に結成したバンダ・ノヴァでコーラスとフルートを担当したダニーロ・カイミの姉にあたる。

1941年、ナナが生まれた時点で、父ドリヴァルは既にカルメン・ミランダの「O que é que a baiana tem?」などの録音で知られる著名なミュージシャンだった。
その後、1943年にドリ、1948年にダニーロが生まれ、後に兄弟全員がミュージシャンになる音楽一家だった。

ナナ自身のレコード初出演は1960年、父ドリヴァル・カイミのアルバム『Acalanto』だ。
まだ娘ナナが幼かった頃に父ドリヴァルが子守唄として作曲した「Acalanto」を、父なりの愛娘への手向か、ナナが20歳になる目前に一緒に収録した。

1964年には、エレンコ・レーベルから、カイミ一家がジョビンを訪ねるというコンセプト・アルバム『Cymmi vista Tom』を録音。
父ドリヴァルだけでなくナナをはじめドリ、ダニーロも参加している。
このディスクはブラジルのポピュラー音楽の古典となり、カイミの未発表曲でありピシンギーニャが作詞を担当した「…Das rosas」が収録された。

1966年、リオのマラカンジーニョで開催された第1回国際歌謡祭で、「Saveiros」(ドリ・カイミ、ネルソン・モッタ)を演奏した。
この”Saveiro”とは、スループ(川を渡ったり、一本釣りをしたりするために使われるバイーア特有の小舟)のことで、海を渡り、海流によって親しい人たちを失ったことを嘆いた地方主義的な作品となっている。
この状況は、当時の地方社会のアナロジーが込められていた。
しかしもっと聴きやすい曲を求めていた観客は、最初から最後までナナにブーイングを浴びせた。
このブーイングの中、曲のテーマにあった悲哀に満ちた歌声と表現力で歌いきり、ナナは国内部門でみごとに優勝を果たしている。
この原体験こそがナナにとって「選択が成功につながるかどうかではなく、自分にとって意味のあるものだけを演奏、録音する」という芸術的なルールとして確立されるきっかけとなった。

翌年、ジルベルト・ジルと結婚。
ジルベルト・ジルとは、1967年の第3回ブラジル音楽祭(TV Record)で演奏された 「Bom dia」を作曲した。
その翌年、ナナがヒタ・リーのムタンチスを従え、「Bom dia」、「Alegria, alegria」(カエターノ・ヴェローゾ)、「O cantador」、「O penúltimo cordão」(カエターノと弟ダニーロ)を歌ったレコードを録音し、ナナとジルは別れることになった。

ナナ自身は「私はトロピカリアをあらゆる面で体験したが、ただ理解できなかった」とだけ語っている。

同年、オスカー・カストロ・ネヴィスの編曲による初のアルバム『ナナ』をエレンコ・レーベルで録音。

1972年にジョアン・ドナートと再婚。
1973年、アルゼンチンのレーベル、Trovaから2枚目のLP『Nana Caymmi』をリリースし、父親の作曲した 「O amor é chama」(マルコスとパウロ・セルジオ・ヴァーリ兄弟)、「Atrás da porta」(シコ・ブアルキとフランシス・ハイミ)、「Pra você」(シルヴィオ・セザール)、「Ahié」(パウロ・セザール・ピニェイロ、ジョアン・ドナート、フローラ・プリム)を収録。
このアルバムはアルゼンチンで20,000枚を売り上げ、またブラジルのレコード市場から8年間離れたこともあり、彼女はブラジルよりもアルゼンチンでよく知られるようになっていた。
そしてちょうどこの頃ナナとドナートは別れることになる。

1975年、彼女を再びMPBシーンに押し上げることになるLP『Nana Caymmi』をリリースした。
ナナ自身がクルビ・ダ・エスキーナのレパートリーに飛び込んだ形となった本作。
「Ponta de areia」(ミルトン・ナシメントとフェルナンド・ブラント作、ミルトン自身とトム・ジョビンも参加)、「Beijo partido」(ギタリストのトニーニョ・オルタ作、トニーニョ自身がこの曲にも参加し、ソープオペラ 『Pecado capital』のサウンドトラックに収録された)、そして父ドリヴァルの曲のひとつである「Só louco」を決定的な形で再現した。

1983年、セーザル・カマルゴ・マリアーノ(エリス・レジーナの元夫でピアニスト、指揮者)と彼女の生涯の代表アルバムとなった『Voz e suor』を録音。

その後、ヴァグネル・チゾ(1989年、アルバム『Só louco』収録)や、クリストヴァン・バストス(1998年、ミニシリーズ『Hilda Furacão』のオープニングを飾ったアルディール・ブランとのコンビで、彼女の大ヒット曲のひとつ「Resposta ao tempo」を生み出した)といったヒットメーカーを迎えたアルバムが定型化する。

1999年には『Resposta ao tempo』で10万枚を売り上げ、キャリア初のゴールドディスクを獲得。

2008年8月、両親の父ドリヴァルと母ステラ・マリアが次々に急逝し、ナナはキャリアから離れることを考えたが、翌年エラズモ・カルロスとのデュエット「Não se esqueça de mim」がソープオペラ『Caminho da Índias』で上演され、再び話題となった。

しかし2016年、胃の外側にできた腫瘍の摘出手術を受け、パフォーマンスができなくなってしまう。

晩年のインタビューでナナ自身はこう語っている。
「基本的に自分のキャリアでやりたいことしかやらない。自分のレパートリーを台無しにしなかったし、録音したくないものは録音しなかった。
私はもう時代遅れ、聴きたい歌もない、私のファンはもう古い。
ブラジルで今流れているこの音楽は何?…引退したつもりはないけど、今日ディスクが無くストリーミング・サービスでしか聴けない。
携帯電話という箱で音楽を聴くことに制限されるなんて、ひどい話だと思う。
私は実用性を求めているのではなく、ディスクが欲しい、ジャケットが欲しい、誰が演奏しているのか知りたいし、歌詞が欲しいの。
最近は自宅でディスクの伴奏やオペラの伴奏でよく歌っているわ。
拍手をしてくれる人は誰もいないけど、だからといって何の違いもない。
今はもうスーツケースに荷物を詰める必要もないし、フライトの遅れや楽屋での恐怖に怯えることもない。
今まで体験したことのない人生を楽しんでいるわ」

2025年5月1日、ナナ・カイミは心臓不整脈の治療のため、リオデジャネイロのサン・ジョゼ病院(Casa de Saúde São José)に9ヶ月間入院したのち、84歳で逝去した。

弟ダニーロはSNSでこう語っている。
「もちろん、家族一同、非常にショックを受け、悲しんでいますが、彼女もまた、ICUという病院で9ヶ月間苦しみ、様々な合併症を抱え、非常に辛い経過をたどりました。
多くのファンの皆さんにとってはブラジルは偉大な歌手を失い、それと同時にブラジルでこれまでに無かった”フィーリング”の偉大な解釈者を失ったのだと思う」

大手メディアでは著名な女性歌手からの追悼コメントを特集している。
その中でも一際印象に残ったダニエラ・メルクリのコメントを最後に紹介しようと思う。

「彼女の”声を誇張しない”歌い方、それでいて感情豊かで繊細で、そして女性歌手を目指すならナナを知ることはブラジルのポピュラー音楽を理解するための基本といっても過言ではありません。
彼女は難しい曲をよく選び、しかもそれを神々しく歌うんです。
だから、もしまだナナの作品を知らないのであれば、ぜひ知ってほしい。
ナナは、私たちに感情を爆発させることが何たるかを教えてくれます。
説明するのはとても難しいけれど、彼女は根源的なアーティストで、実は私も今でも学ぶことが多いアーティストです。
特にドリヴァル・カイミの曲は自分では上手に歌っているつもりでも、ナナが何をやっていたのかを聞き返すたびに、学び直しやっと理解できることが頻繁にあるんです」

オススメの記事