【特集インタビュー】01:ウィリー・ヲゥーパー

Brasil com “S”.comの目玉企画、ブラジルに関係しているアーティストのインタビューです。 記念すべき第1回は本編集部のスーパーバイザーで連載記事も書いて頂いている ブラジル音楽愛好家のウィリー・ヲゥーパー氏にこれまでのキャリアとブラジル音楽の出会い、 ブラジル音楽の魅力等についてお話を伺いました。 それではどうぞ!

聞き手:実佳・ヴィニシウス(編集長)

Q:音楽との出会いはいつ頃ですか?ブラジル音楽に目覚める前はどんな音楽を聴かれてました? A:子供の頃から「みんなのうた」や「ひらけポンキッキ!」、「ザ・ベストテン」といった音楽の番組が好きで、気に入った曲をカセットテープに録音していました(笑)。 お年玉でレコードを買うのが楽しみでした。 『ドラえもん』のサントラとか買った記憶があります。 中学生になると吹奏楽部に入りました。 最初1年間トランペットで2年生からサックスです。 他の部員はクラッシックやマーチングが好きだったのですが、自分は吹奏楽用にアレンジされたポップス楽曲が好きでした。 今思えば「ブラジルの水彩画」や「恋のカーニヴァル(フェスタ・ヂ・インテリオール)」といったブラジルの曲を演奏していたんですよね。 それが恐らくブラジル音楽との最初の出会いです。 やがてFM放送を聴くようになると音楽の趣味も広がり、ラジオ番組にリクエストハガキ出したりしていました。 ホール&オーツとかスパンダー・バレエ、カルチャー・クラブといった当時流行していた欧米のポップ・ロック、ザ・スクエアやマルタ、 松岡直也、シャカタクやデヴィッド・サンボーン、パキートといったフュージョン、ポール・モーリア等の軽音楽なんかも好きでした。 ジャズはカウント・ベイシーやグレン・ミラーといったビッグバンド系が好きでした。 たまたま知り合ったジャズ好きの大人から「サックスやっているならチャーリー・パーカーを聴け」と言われてレコード買ったもの当時はちんぷんかんぷんで(笑)今もですが(笑)。

Q:中学校の部活で吹奏楽部だったんですね。 ブラジル音楽をすきになったきっかけは? A:高校生の頃に自宅にビデオデッキが入り、音楽番組を録画するようになりました。 1986年の夏にボサノヴァの創設者の1人であるアントオ・カルロス・ジョビンが日本に一度きりとなる来日公演をして、 それがNHKで放映されたのですが、何も知らないままその番組を録画していました(笑)。 ジョビンがパナマ帽と麻の白いスーツ を身にまとって登場、ピアノを弾いて歌っていると思ったら途中で立ち上がって踊り始めたり、 きらびやかな女性コーラスもステージに花を添えているし、演奏が終盤に差し掛かるとだんだん日が暮れて夜になるという演出もとても良くてものすごく感動してしまいました。 画面下に「これは「ボサノヴァ」といわれる1950年代末にブラジルで誕生した音楽です。」 と字幕が出てきて、それで初めて「ホザノヴァ」の存在を知りました。 このビデオは恐らく100回以上は観たと思います。 あまりに観過ぎてテープがダメになってしまった時にはかなりショックを受けました。 その何十年後に非公式ですがYoutubeで再会した時は涙が出ましたね。 レーザーディスクで出ましたがずっと廃盤で、こういう歴史的価値がある作品はDVDでもリリースして欲しいですね。

Q:まだYoutubeや音楽配信がない時代ですね。 レコードやCDを買わないと聴けなかったんですか?

A:図書館やラジオでも聴くことは出来たのですが、自分はレコードやCDの現物を所有したい欲がありました。 解説とかじっくり読みたいですしね。 その頃ブームだったレンタル・レコード店がCDレンタルに変わろうとしていた時代でした。 自転車であちこちのレンタル・レコード店を覗いては処分価格で投げ売りされているレコードを安く買いました。 ボサノヴァはほとんどなかったのですが、日本盤で出ていたジョビンやアストラッド・ジルベルト、ナラ・レオンなどを見つけた時は大喜びでした。 大学生になってからはバイトも始めたので中古CDショップやレコードを売っている古本屋にも通いつめ、メイド・イン・ブラジルのレコードやCDを見つけると手当たり次第に買って聴きまくりました。 タワーレコードやHMV、ヴァージンメガストアといった外資系CDショップがオープンするとブラジル音楽のCDが並び始めたので、棚で売られている作品で持っていない作品は全部買う勢いでした。 当時は輸入されていたタイトル数も少なかったですしね。 ちょっと頑張れば一通り買えていました。

Q:大学ではラテン音楽同好会を結成したそうですが、どんな活動をしていましたか? A:某地方の大学入学を機に引っ越しして一人暮らしを始めたのですが、どうもクラスメイトと話が合わなくて苦労しました。 同じ歳なのに価値観が全く違って。 土地が違うとこんなにも文化が違うんだということをしみじみ思い知らされました。 当時はインターネットもなかったし。 吹奏楽もジャズ研もありましたが、全く馴染めなくて2年ほど楽器から離れてバイトに明け暮れました。 バイト代は生活費を除いて全てCDとレコードになりましたね。 当時の中古盤は大体1200円位で売っていたので「食事2回抜けばこのCD買える!」とか、そんなことばかり考えていました。 3年生になって、数少ない音楽仲間が声を掛けてくれて演奏活動を再開しました。 自分達でやりたいことをやろう!とラテン音楽同行会を結成しました。 ちょうど小野リサがデビューしたり、サルサのオルケスタ・デ・ラ・ルスが海外で賞を取ったりとワールドミュージックが注目されていた頃です。 ボサノヴァの楽譜集が発売されているのを見つけるとギター弾ける人を探してメンバーに入ってもらい見様見真似で演奏していました。 「ウェイブ」とか渡辺貞夫さんとトッキーニョの 「メイド・イン・コラソン」とか演奏しましたね(笑)。 あとポール・デスモンドとか。ラテンだとティト・プエンテとかポンチョ・サンチェスとかの曲をコピーしていました。 ジャマイカン・スカも演奏していました。

Q:社会人になってからは? A:社会人になると時間が取れなくなって楽器演奏は辞めてしまったのですが、ブラジルや南米の音楽に対する愛着?執念?は欠かさず持ち続けていました。 就職して某地方都市に配属されてしまい、東京でしかやらない来日コンサートの情報を見るたびに歯がゆい思いをしていました。 出張で東京に行く度に空き時間に中古レコード屋に寄って、カバンに入りきらないくらいレコードやCDを買ったりしているうちに、「やっぱり東京に住まないとダメだ」と思うようになり、転職して東京に引っ越しました。 毎日仕事帰りに中古レコード屋に行ったりライブに行ったり、今思えば毎日が楽しく充実した日々でした(笑)。 まだぎりぎりレコードも安かったし。恵比寿にあったCDショップ、中南米音楽に通うようなり、ケペルさんや常連の方々と知り合いました。 またパソコン通信のニフティーサーブという文字だけのSNSがあって、そこに書き込みしている人たちとも仲良くなりました。 みんな年上でしたが音楽に詳しい人たちばかりでした。

Q:執筆活動はいつから?そして実際にブラジルに行かれたのはいつ頃ですか? A:ブラジル音楽のホームページを始めたことをきっかけに、CDライナーの原稿や雑誌にブラジル音楽の記事を書いて欲しいと頼まれることが増えてきて、サラリーマン兼業ライターになりました。 本名だと都合悪いのでペンネームとして「Willie Whopper」のクレジットを使うようになりました。 良く聞かれるんですが、これはブラジル由来ではなく、当時好きで良く聴いていたサルサ界の重要人物、ウィリー・コロンのデビュー作に収録されている曲のタイトルからの引用です。 当時はサルサとかニューヨーク・ラテンも好きだったんです。 ブラジルと同じ移民が作った音楽です。 この曲、人の名前っぽくて使わせてもらっていますが、元々は戦前のアメリカのマンガのキャラの名前みたいですね。 あちこちの媒体に記事を書くようになった一方、ブラジルに一度も行ったことがないということにコンプレックスを持っていました。 分かったようなことを書いてもやはり実体験がないですからね。 社会人になって10年以上経って初めて長期休みが取れることになり迷わずブラジルに行きました。 1週間の日程で現地滞在は4日ほどでしたが、そこで大きな衝撃を受けました。 ブラジルのCDショップに行ってみるとCD棚に並んでいるのは知らないアーティストばかり。 日本ではほとんど情報が入ってきていないロックやポップス、思っていた以上に作品がリリースされていたフォホーやパゴーヂやアシェーなどの大衆音楽、日本では「ブラジルの演歌だよ、聴く必要ない」と言われていたセルタネージョ等々、ブラジルの音楽は一通り知っていると自負していたのに打ちのめされて、それまで自分が聴いていたのはブラジルの音楽のほんの一部分にしかすぎなかったと気づかされました。 しかもどの音楽も素晴らしいんです。 帰国後はブラジルタウンと呼ばれる大泉や浜松に通うようになり、ブラジル人雑貨店で販売されていた最新ヒットCDを買ったり、在日ブラジル人企画の来日コンサートを観に行くようになりました。 ボサノヴァからスタートして、気がついたらいろんなジャンルのブラジル音楽を万遍なく聴くようになってましたね。 気が付けば24回もブラジルに行っています。 これからも通い続けると思います。

Q:あなたにとって、ブラジル音楽の魅力は何だと思いますか? A:風景や街並みといった日常の中に音楽がマッチしているというところですね。 同じ曲でも日本のエアコンの効いた家の中でただ聴いている時と、ブラジルに実際に足を運んで街並みや風景を見ながら曲を聴くのとでは印象が全く別のものに変わるんですよ。 そして地域によってヒットチャートが変わること。 日本ではそんなことないですよね。 広大なブラジルの中で、それぞれの地方ごとに様々なタイプのご当地音楽が誕生、流行して愛されていることに驚くと同時に大きな魅力を感じます。 そしてそんな中、全国区で成功するアーティストの偉大さですね。 例えばホベルト・カルロスやイヴェッチ・サンガロがそうですよね。 日本ではその素晴らしさが伝わり切れていないのが残念なところです。

Q:おすすめのブラジル音楽の名曲や好きなアーティストを教えていただけますか?

A:自分が1番好きなアーティストはエリス・レジーナですね。 音楽面もそうですけど、彼女のライフストーリーが凄く好きで、地方出身のガラス職人の娘が苦悩しながらも歌の実力だけでサクセスストーリーを築いていくという所に凄く惹かれました。 初めてエリスの作品を聴くなら『エリス』(1972)がお勧めです。

Q:ブラジルのお店をはじめられたきっかけは? A:サラリーマンとして延べ13年働きましたが、いろいろあって辞めることを決意、40日間の有休を使ってミナス、レシーフェ、バイーア、リオデジャネイロ、サンパウロと廻りました。 それまでは2回ブラジルに行ったのですがリオとサンパウロだけで、地方都市をずっと廻ってみたかったんです。 帰国後は転職しようと思っていたのですが、ある出版社から「ブラジル音楽の本を出しませんか?」とオファーが来て半年間取り組みました。 それが初の著作『ムジカ・モデルナ』です。 当時の最新ヒット系ブラジル音楽アーティストを500組紹介したCDガイドブックです。 またその頃、月1回ブラジル音楽のDJイベントを下北沢で開催していて、これが評判になっていたのですが、ふと「自分でCDやレコードも販売して、ブラジルのお酒やブラジル料理を味わいながらブラジルに関係するイベントをやる複合型スタイルのお店って面白いかも」と思いつきました。 実はサラリーマン時代に小売店の新業態開発、いわゆるアンテナショップの企画みたいなことをやっていたのでその経験が役に立ちました。 コンセプトが定まると店名はエリス・レジーナが歌った名曲「ホマリア」の歌詞に出てくる「アパレシーダ」に決めました。 アパレシーダとは世界で2番目に大きな教会があるブラジルの田舎町の名前です。 40日間の滞在時に実際にアパレシーダを訪問、その素朴でのどかな所が気に入りました。 西荻窪に良い場所が見つかって2006年10月にオープンしました。 最初は多くの人から「レストラン?バー?CDショップ?一体何屋さん?」と言われましたが、「ここはブラジルをテーマにしたコミュニティ・スペースです」と説明、ブラジル音楽好きはもちろん、元駐在員や元留学生、ポルトガル語学科の大学生、カポエイラやサッカー、ブラジリアン柔術などのスポーツ愛好者、そして在日ブラジル人まで通ってくれるようになり、ブラジル好きの集まる場所として知られていきました。 お店で知り合って結婚した人もいるんですよ。 2007年からは毎年ブラジルツアーも開催、観光だけでなく現地でライブに行ったり、アーティストと交流したりと一般の旅行では経験できない内容の濃いツアーを企画しています。

Q:最後に今ポルトガル語を学び、ブラジルに興味のある学生や若者にメッセージをお願いします。 A:ポルトガル語習得を勉強として捉えるんじゃなくて、ブラジル人とコミュニケーションを取るツールとして捉えてみてください。 ブラジル人の友達が出来ればすぐにポルトガル語は上達します。 もちろんポルトガル語が話されているのはブラジルだけではないですが、日本国内に20万人以上のブラジル人が生活しています。 これはポルトガル語学習者にとって恵まれたチャンスです。 大泉や浜松、鶴見といったブラジル人コミュニティに遊びに行って彼らの日常に触れてみる体験は時には勉強以上に役に立つこともあると思います。 大げさかもですがこれからの生き方なども見えてくるかもです。 あともちろんいろんなブラジルの音楽も偏見なく聴いてください!一生楽しめる趣味になるはずです。 それぐらいのポテンシャルをブラジルの音楽は持っています! ウィリー・ヲゥーパー[Willie Whopper]

ブラジル音楽愛好家。 著書に『ムジカ・モデルナ』、 『リアルブラジル音楽』、 『ボサノヴァの真実』、『音楽でたどるブラジル』、『ブラジル・インストルメンタル・ミュージック・ディスクガイド』、『ブラジレイラメンチ』等がある。音楽を中心にブラジル文化情報を雑誌、新聞、web等に寄稿。CD/DVDライナー多数執筆。駐日ブラジル大使館(東京)、ブラジル中央協会(東京)、日本国外務省ジャパンハウス(サンパウロ)、SESCブラジル商業連盟社会サービス(サンパウロ)等でブラジル音楽をテーマに講演。2006年ブラジルをテーマにしたコミュニケーション・バール「Aparecida」(東京・西荻窪)オープン。翌2007年よりブラジル音楽ファン向けに特化したブラジル・ツアーを企画、現地ブラジル人アーティスト達との交流会を開催(ベコ・ダス・ガファーハス(リオ・デ・ジャネイロ)、バール・ド・アレマォン(サンパウロ))。2011年、第1回 ブラジリアン・プレス・アワード音楽部門受賞(日本人として初)。

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