【独占取材】映画『pertificando(ペルティフィカンド)』名倉亜希子監督と主演の阿部浩二さんに伺う現在地から見えた当時。

2026年、ブラジル映画祭にラインナップされた「pertificando(ペルティフィカンド)~僕の中にあるブラジル音楽を辿る旅~」
撮影から17年のときを経て感じること、変わらないことを監督の名倉亜希子さんと主演の阿部浩二さんにお伺いしました。

ブラジル映画祭+

名倉亜希子監督への質問

この映画は「ブラジル音楽が好き」という感情の先にある違和感から始まっているように感じました。
最初に名倉監督の中にあった問いとは、どんなものだったのでしょうか。

名倉:大学入学後、美術サークルに入ろうとしていたとき、友人が一人で行くのが恐いのだけど面白いサークルがあるから一緒に来てくれないか?と誘われて行った「早稲田大学ラテンアメリカ協会(通称ラテアメ)」のライブがブラジル音楽との出会いでした。
ブラジルに行ったこともないけれど、カヴァキーニョという楽器の音色に魅了され即時入部し、音楽三昧4年間を過ごし1年ブラジルへ留学研修し、現地のカーニバルに参加したりと、20代はブラジル音楽に染まった人生でした。

ブラジル音楽が好き。それがいつしかブラジルが好き。へと変化していったのは、なぜかわかりませんが、日本人とブラジル人の間に、ほかの国に感じるような違いをあまり感じなかった、遠い親戚のような感覚がずっとありました。
一方、日本の外国人労働者で最も多いのはブラジル人であったことはあまり日本人も知らず、外国人労働者と言っても、元は日本人で海を渡ってブラジルへ移民した子孫たちが日本へ戻ってきているのですが、その方々が日本では「ガイコクジン」となることにも一抹の違和感が残っていました。

ブラジル音楽を始めた頃は、「ブラジル」というものをあまり意識しておらず、そこに流れる旋律の中に、心地よいものを感じていただけでした。

すぐ隣にいるのだけど、すごく違うようでありながら、同類のような、しかしまったく違うような・・・違うとも同じとも意識しない。不思議なものであったのですが。
2009年日本で初めてブラジル人労働者によるデモがありました
不況、雇用という壁が突如現れたとき、我々は「違う」ということを強く突きつけられたのです。日本人は残されるが、ブラジル人は解雇される。

日本人が演奏するブラジル音楽と、日本人が演奏するブラジル音楽に違いがあるのか?ないと思う。

立場の違いを突きつけられる分断と、決して線引きされないものがブラジル音楽であるはずだと。
そうした希望から、ここまで私たちはブラジルが好きであるという気持ちをフィルムに残してみたいと思うようになったのです。
音楽は平和で、そこに理由も説明も、上も下も、身分だの、お金だの、何も関係ない。
私たちは同質だ、平等だ、何かそんなものを伝えたいと思っていたのかもしれません。
何もないままに撮影を始め、答えを出すのは失礼だと思っていました。
私ごときに答えは出せるものではないということで。

「問い」というものがあったか、については・・・言うなれば「渇望」というような言葉がしっくりくるかもしれません。
デモ行進で感じた悲しみのようなもの、ベトのラップに乗ったメッセージや希望のようなもの・・・何かを探さねばいけないという「渇望」であったのかもしれません。

「日本人にとってのブラジル音楽」を扱ううえで、
撮影中に監督ご自身が一番意識されたのはどんな場面でしたか。

Photo:O-DAN

名倉:サブタイトルが「僕の中のブラジル音楽を辿る旅」の「僕」なんですが、これは阿部さんではなく、単なる主語と思っていただけたら嬉しいです。
視聴いただいた、みなさまご自身の「僕(私)」であります。
それはブラジル人の出演者も「僕の中のブラジル音楽とは」というテーマで「僕」なので、
「日本人」「ブラジル人」という分け隔てもない感じです。

ブラジル人はみなさんご存知の通りさまざまな人種、文化が混じっていますので、一言で「ブラジル音楽」といっても、日本人と近い音楽の出会いの中で育ってきて、その中でブラジル音楽を選び取った方たちであったような気がします。
クラシックや、ROCK、JAZZ、ショーロ、カントリー、ワールドミュージック、などなど。
意外と日本人ミュージシャンと同じような環境であったことは、すごく面白かったですね。
旅を続けているうちに、ますます、ブラジルと日本という境界線がなくなっていったのです。
編集でもそうなっていますが、スタートは日本、その後ブラジルへ到着しますが、みなさんのロングインタビューを解析していくと、その思いやエピソードは、音楽というベースにおいて、何人(日本人かブラジル人か)という境界は、どんどんなくなっていくような感じでしたので、編集上でも、場所は飛んでいきます。どこでも関係ない、という感じです。

編集の過程で「これは入れたかったけれど入れなかった」場面はありましたか。

Photo:O-DAN


名倉:ブラジル音楽に興味がない方、知らない方にとっても観て頂いて、何かに熱狂するとか、他文化をここまで追求するとか、違いを超えていくとか、そういう熱狂、渇望、何か伝わるものがあれば嬉しいと思って制作しておりましたが、2009年のブラジル映画祭の際には、他文化(言語やカルチャー)の習得できない越えられない壁、そんなものと格闘していた人々から、ブラジルは全然知らないけど、通じるものがありました、とコメントいただいたりしたのは嬉しかったです。
国は変わっても多文化共生、理解の気持ちは同じなのだと。

映画祭では2時間の制約があっため、それぞれの演奏やインタビューは短いのですが、
完全版ですと10時間ぐらいになりますかね・・実際は長いインタビューとライブまるまるといった膨大なフィルムが今も残っています。
もっと演奏や話をコンプリートで観たいと言っていただけるブラジル音楽愛好家の方からもたくさんお声をいただいていたので、もう旅立ってしまった方もいるので、その演奏の軌跡をまた改めて完全版をお届けすることができたらと思っています。

阿部浩二さんへの質問

この映画は「ブラジル音楽を通じた旅」からご自身の中にある価値観を問い直す旅に見えました。
撮影前と後で、一番変わったと感じる部分はどんなところでしょうか。

http://www.kojiabe.com/

阿部:この旅を通じて、いろいろな人と出会い、演奏したわけですが、この旅を通じてbefore / afterで劇的に変わってしまった、というのはなく、すべての体験は追体験であったようにも思います。
だから変わったのは、原体験としての20代後半でのブラジル体験の方が大きかった。
何が学びだったのかといえば、やはり日本という金太郎飴のような均質社会に対して「あ、こんなのも、アリなんだ。これで普通なんだ」という多様性の学びだった気もします。
と、言葉にすると、豊穣な体験が痩せっぽちの偏った意見になってしまう気もしますが。
ところで、こうして17年ぶりに映画を見ていて、自分にとって当時は意識しなかった言葉、当時でも自分に刺さった言葉、それらが17年の間に消化され、徐々に自分が変わっていったというような感覚はあります。
17年を通した上でのbefore / after。それはブラジル音楽に対して構えるような気分はかなり減ったし、正しいか正しくないか?というような意識もそのような問いの形ではなく、楽しいか楽しくないか?となっています。
ブラジル音楽になっているか、なっていないか?という問いもなく、私にとってのブラジル音楽という気分で演奏していますね。

阿部さんにとって日本でブラジル音楽を演奏することは、「翻訳」に近い行為ですか、それとも「別の表現」でしょうか。

Photo:O-DAN

阿部:ブラジルでは、歌手のことをinterprete(通訳者、翻訳者のような意味)と言ったりします。
偉大な作曲者を私の肉体を通じて翻訳している、というような感覚でしょうか?
私が、サンバやショーロのスタンダードを演奏しているときは、数多ある表現者に連なる末席として演奏しているつもりですが、自分の作曲した音楽に対しては比較されるものもないので、自由に、ブラジル音楽である必要もなく「別な表現」として弾いていると思います。

長年、様々な場所で演奏されてきたと思いますが、当時と今で、演奏している人たちの「姿勢」や「距離感」に変化を感じることはありますか?たとえば、音楽への向き合い方など

Photo:O-DAN

阿部:ブラジル音楽に対する姿勢や距離感と言うのは、そうですね。
やっぱり少し成熟してきていると言う感じは、ありますかね。
私の持論でもあるんですけども、たとえばロックが最初の頃はやっぱり英米のロックのものまねと言うような形で始まるんですけれども、気がついたらJ-Pop J-ロックみたいなものが、ごく当たり前に存在しているように、ブラジル音楽も最初はかなり慎重に、本物に近づけると言うような真面目な姿勢があるんですけど、だんだん雑になってくると言うとアレなんですけども、こなれた感じになってくる。
その中で楽しんでいく、というのがあると思いますね。
そういった変化っていうのは全体的なムーブメントとしてあるとは思いますが、それと同じのことが個人の歴史の中でも起こっていると思います。
だからやっぱりごく最近になって、ブラジル音楽を聴き出した、演奏しだしたと言う人たちは、やはりとてもリスペクトを持って原点の音楽を聴きますし、そこに自分を近づけると言うような態度で普段音楽をやってますよね、それは今も昔も変わらないと思います。

情報の環境の変化ということでは昔は圧倒的に情報少なかったですから、その分喉の渇き、サースティな感覚というのはとても強かったわけで、それはすごくいいことだと思うんです。
今みたいにちょっと調べれば何でも出てくるというのと違いますから、情熱がね、違いますよね。
ただ現在は情報量が圧倒的に多いですから、その分誤解も減るということはありますよね。
正しい情報が伝わる、誤解は誤解でそれは文化の萌芽であると、私なんか思ってるんですけども。

お二人に質問です

タイトル「pertificando」はどのような経緯で決まったのでしょうか。

Photo:O-DAN

阿部:「Pertificando」と言うタイトルは、監督が何か存在しない造語でいいから、タイトル作ってくれないか?と言うお題が出たので、私が作りました。
ざっくり言うと「近くにいるよ」という意味です。近い、のpertoと、いる、のficarを現在進行形にしました。

名倉:「Pertificando」=「近くにいる存在」という造語なのですが。
2009年の映画祭で、映画のキャッチコピー「一番遠くの遠距離恋愛」を考えてくれたのは、ブラジル留学の同期・井上さんです。
当時は「日本ブラジル交流協会」と一緒に行って、19期20人ぐらいでブラジルへ留学研修に向かいました。
当時の仲間が、ブラジルに渡った理由は様々でした。
農業、サッカー、ポルトガル語、音楽、日系人、医療、法律・・・それぞれが、様々な分野で、それぞれのブラジルを追求していました。
みんなの研究テーマは深くて、ブラジルの奥深さ、懐の深さ、面白さを垣間見ましたが。
それぞれにとってのブラジルは、近いけど遠い・・・
「近くにいる存在」なのに、「一番遠くの遠距離恋愛」。
このもどかしさ、なんとなく伝わることこれ幸いです。

この映画を観た現代の若者たちに、もし一つだけ伝えられるとしたら、何を伝えたいですか。

Photo:O-DAN

阿部:若者へのメッセージとしては、ブラジル音楽は、ほんとに素晴らしいし、そしてブラジルって言う国には面白いんで、いっぺん行ってみて!って感じです。

名倉:新宿ディスクユニオンでワールドミュージックコーナーでジャケ買いしたサンバのCDを聴くこと、部室にあった先輩が作ったサンバの歌本を大切に読んだこと、インターネットがなかった時代に口述で演奏も日本人の先輩から教わっていたアナログ時代のブラジル音楽との接点、本場のサンバを学ぶには、生のブラジルに渡らないと・・・そして留学したあの時代からは、2026年は様変わりしました。
検索すれば山のように出てくる映像や音楽の中でみなさんは、どんなブラジル音楽を吸収して表現されていくのでしょうか?
音楽は世界の平和や、国際交流、他文化理解に大きな役割を果たす、心の栄養。
日本、ブラジル、若い世代が、新たな音楽を創造してゆくこと、その息吹に出会えることを、とっても楽しみにしています!

ブラジル映画祭+
オンライン配信は2/15(日)まで

映画『pertificando(ペルティフィカンド)』視聴はこちらから

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