【特集】母の夢を継いで——ブラジルで音楽と向き合い続けた小俣さんの軌跡
「母が歌えなかったジャズを、自分が歌おうと思ったことがきっかけでした」
そう語るのは、シンガーのKeiko Omataさんだ。(以下小俣さん)
幼いころから母親がジャズを歌っていた影響で音楽に惹かれ、大学時代に歌の道を歩み始めた。
母は子育てのため歌の道を諦めた。
当時はバブル景気の余韻も残り、学生でも数多くの仕事の機会があった。昼間は大学、夜はアルバイトやライブ活動を行った。
ジャズを中心に時々ボサノヴァを歌えば、ポルトガル語の発音を指摘されることもあったが、浅草ジャズフェスティバルで優勝を果たすなど、順調に見える歩みを進めていた。
しかし、歌手としての仕事として行き詰まり、さらにプライベートでは大切な人を事故で失う出来事にも見舞われた。
そんな転機のなか、「ブラジルに行ってポルトガル語を学ぼう」と決心する。
ポルト・アレグレでの出会いと葛藤
最初に滞在したのは、エリス・レジーナに憧れ南部の都市ポルト・アレグレへ。
現地で出会ったミュージシャン仲間と音楽活動を共にしながら、地方テレビや新聞に取り上げられることもあった。
「でも本来は語学を学びに来ているのに、取材に追われて勉強ができなくなるのは違うと思って。結局、生活の為に夜はショーに出ていました」
当時のブラジルでは、ジャズや欧米のヒット曲を求められていた。
セリーヌ・ディオンやホイットニー・ヒューストンを歌えば仕事はあったが、「自分はそのためにブラジルへ来たわけではない」と違和感を覚えたという。
リオへ——本格的な学びの場へ
ある時、エリス・レジーナの元マネージャーに出会い、「本当に音楽を学びたいなら、リオへ行くべきだ」と助言を受ける。
その言葉に背中を押され、リオ・デ・ジャネイロの音楽学校に入学。
クラシックを中心に基礎をもう一度学び、ソプラノとしての基礎を徹底的にいかした。
「女ひとりでリオで生きるのはとても大変でした。若く見られやすい日本人女性としての苦労もありましたが、流されず自分を守ることを意識しました」
やがて生活や自分を守るためにプロテスタントの教会に入り信者となった。教会で指揮の仕事を得るなど、ステージから距離を置くようになり新たな音楽活動を模索する時期もあった。
再びステージへ
ステージから距離を置いていたある日、友人に誘われて参加したセッションで転機が訪れる。
クラシックで鍛えた声をいかし、難曲「星影のステラ(Stella by Starlight)」を原曲キーで歌い上げたところ、客席の雰囲気が一変した。
これをきっかけにリオのミュージシャンを中心に話題となり共演するチャンスを得た。
「マイクなしで歌っても声が響いたんです。そこから少しずつライブの仕事が増えていきました」
やがて、ボサノヴァと日本人をテーマにしたテレビ番組『BOSSA NOVA SOL NASCENTE』(日出処のボサノヴァ)にも出演。
ホベルト・メネスカルやワンダ・サーといった名だたるアーティストと共演する機会にも恵まれた。
ホベルト・メネスカルと出会い、そして東北への想い
ブラジル音楽の巨匠、ホベルト・メネスカルさんとの縁も、思いがけない瞬間から始まった。
テレビ特番の楽屋で彼がバーニー・ケッセルの曲を練習がてら弾いていたとき、小俣さんも大好きだったのもあり話題になり、メネスカルさんがその場で軽やかにフレーズを奏でてくれたのだ。これをきっかけに連絡先を交換。
ある日、日本から小俣さんの友人でブラジル好きのアマチュアギタリストである長谷部敏朗さんがブラジル旅行でリオデジャネイロを訪れた。
その際に長谷部さんが大ファンだというメネスカルさんに会いたいという願いを受け、小俣さんはメネスカルさんに連絡、会ってもらえることになった。
長谷部さんはメネスカルの前で彼の代表曲「O Barquinho(小舟)」を弾き始めた。
「その場の空気に導かれるように私も歌い、メネスカルさん自身も一緒に歌ってくれました」
まさに音楽が人をつなげる瞬間だった。
そして2011年、東日本大震災が起き、わざわざニューヨークからMika-Moriさんが「何かしなくては」と言い出し、小俣さんも彼女に賛同し「お金は集まらなくても、励ましの気持ちを届けるコンサートなら、きっと被災地の人たちも喜んでくれるはず」
Mika-Moriさんを軸に小俣さんは、在ブラジル日本国総領事館に相談。全面的な支援を得ることができた。

「せっかくだからメネスカルさんも呼んでみたらどうですか?」と領事館側に提案され、ダメ元でメールを送ったところ、彼から届いたのは即答の快諾だった。
メネスカルさんは「日本のファンに助けられてきたから、少しでも恩返しをしたい」と語り、さらに彼の音楽仲間である女性シンガーのレニー・アンドラージさんまでゲストに招いてくれたのだ。
この2011年をきっかけに、メネスカルさんから日本に向けて自身のレーベルアルバトロスの新人アーティストを紹介することになった。
そしてオリジナルの日本語作詞を頼まれたり、レコーディングにも立ち会った。
アルバトロスレーベルのオムニバスの曲に2曲参加している。
編曲、ギターはメネスカルさん、小俣さんは英語で歌っている。
メネスカルさん自身『黄金時代は過ぎたけれど、新しい世代を育てるために出会いを大切にしたい』という思いを持っていて、本当に熱心な方なんですと小俣さんは語る。
母の夢と、自分の歌
2014年拠点を日本に移した小俣さん、現在は母国日本でジャズやボサノヴァと真摯に向き合い続ける。
彼女の音楽人生は、決して一直線ではない。
挫折や苦難を経験しながらも、歌うことを選び続けた。
「母が果たせなかった夢を、自分が代わりに叶えたい。その気持ちは今もずっと変わらないですね」
母の夢を背負い音楽を歩み続けるなかで、巨匠ホベルト・メネスカルとの出会いや震災を機に生まれた音楽の絆。
そこから感じるのは、彼女の歌声には単なるキャリアとしてではなく「人と人とを結ぶ音楽の力」があることを、私たちに信じさせてくれる。
アーティスト情報
Keiko Omata(小俣景鼓)
ボサノヴァジャズシンガー、音楽講師
立教大学フランス文学科、ブラジル音楽院作曲科卒業。
リオ・デ・ジャネイロ連邦大学音楽部指揮科で学ぶ。
バプテスト神学校大学院専門過程修了。
保育士。
浅草ジャズコンテストにて、グランプリ受賞。
読売新聞社より表彰を受ける。
国際オペラコンクール「ビドゥ・サイアン」に参加。
国際交流基金フェローシップ受領。
1999年ブラジル音楽を研究するため、ブラジルへ渡り、ボサノヴァのアレンジャー兼ギタリストとして高名なジェラルド・ヴェスパールに師事。
ボサノヴァの巨匠、ホベルト・メネスカル氏のプロデュースするCD(日本発売)の録音に参加、同氏のレーベルアーティストの日本語訳などを担当。
2013年、ブラジルのレーベル、ニテロイディスコスから「ザ・シークレット・ガーデン」をリリースする。
現在は日本でボサノヴァジャズシンガーとして活動する傍ら、幼児教育においての音楽講師などをして後進の育成に当たる。
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