傘寿を迎えたイヴァン・リンスに聞く─MAU時代から未発表曲まで
今年6月に傘寿を迎えたMPB界の大スター、イヴァン・リンス。
今回は久し振りに自身のグループで来日したイヴァンに、ブラジル音楽愛好者的見地から少々踏み込んだ質問を投げかけてみた。
(聞き手:Willie Whopper、通訳&サポート:島田愛加 協力:Bule Note Tokyo)
Willie(以下W):80歳、そして55年のキャリアおめでとうございます。
実ははあなたの来日公演前に日本人ファンに集まってもらい、あなたについての勉強会を開きました。この資料を見て頂けますか?公式サイトに載っていないアルバムなども紹介しています。
Ivan(以下I):(資料を見ながら)よく見せて。あぁ!シジネイ・マトスと共演した作品がある!これは僕も持っていないよ。わぁ!陸軍士官学校に通っていた時の写真もある!(笑)
W:その勉強会の時に参加者から質問を募ってみました。少々マニアックですが、ご回答いただけたら幸いです。まず、初期のキャリアについて。あなたはMAU(MovimentoArtístico Universitário)に参加されていたそうですが、そこではどんな活動をされていたのですか?具体的にはどんな内容でしたか?音楽だけ?それとも政治的な活動も?
I:音楽です。音楽だけ。毎週金曜日の夜、マラカナン・スタジアムの近くにある家に集まって、それぞれの楽曲を披露したり、楽曲を作ったり、演奏したり。毎週、新しい曲を提出することになっていました。想像力豊かな頃でした。目的は団結して自分たちの市場を開拓することでした。そのおかげで私たちはテレビ・グローボと契約することができたのです。彼らはグループの中心となっていた12人のアーティストと2ヶ月間の契約を結びました。1971年1月から5月までは『Som Livre Exportação』という番組に出演しました。政治的に不安定だったブラジルで、僕たちにとってこの番組は非常に重要なものでした。僕たちは、学生たちが新しい視点や考えを持つために歌う必要がありました。検閲がありましたから、歌詞は隠喩を使わなければなりませんでした。とにかく想像力に富んでいて、多くの聴衆、特に若者が沢山いました。
MAU(MovimentoArtístico Universitário)とはリオデジャイロ市周辺に在住していた音楽家を目指す大学生世代を中心としたサークル的集まりの名称。バイーアのトロピカリズモ、ミナスのクルービ・ダ・エスキーナに匹敵するムーブメントだった。
W:MAUにリーダーはいたのですか?
I :詩人のアルジール・ブランキ、と同じく詩人のパウロ・エミーロ、ゴンザギーニャ、セーザル・コスタ・フィーリョらがいましたが、中でもアルジールとパウロが重要な役割を果たしていました。1971年にMAUは解散し、年末にジョアン・ボスコが現れました。アルジールはジョアン・ボスコとパートナーシップを組み始め、パウロのことも紹介しました。
W:デビュー作『Agora(邦題『イヴァン・リンス登場!』)』リリース後、音楽をやめようと思い会社の面接に行ったというエピソードを聞きました。それについて教えて下さい。
I:1969年に大学院でセメントの研究を初めて、1年半で修了しました。1970年の6月まで学生をしながら音楽をしていて、セメントを専門とする化学エンジニアの職を探していました。父親には「音楽は安定しない。エンジニアのような安定した職につきなさい」と何度も言われていました。音楽はやっていたけど、アマチュアでありプロとしてではありませんでした。そしてある日、今も存在するブラジルの有名なセメント会社(Tamoyo)の面接に行って、CEOに迎えられました。面接が終わった後、CEOに「あなたはエリス・レジーナが歌っていた「マダレーナ」の作者だよね?」と言われサインを3枚お願いされました。その時に「あぁ、自分はもう有名人なんだ。もう化学はやらない」と思い、音楽で生きていこうと思ったんです。1971年1月から放送される『Som Livre Exportação』の出演契約のためにTVグローボで契約書にサインをしました。まだこの契約書はどこかに保管してあります。1970年11月か12月か覚えていませんが、僕の労働手帳に判子が押してあると思います。そう言うわけで、人生初の仕事は、TVグローボでした。
W:続いての質問です。3枚目のアルバム『Quem sou eu?』の中に「S.Q.D.Q.」という15秒の曲があります。この曲には何か隠された意味があるのですか?
I:これは「Seja o que Deus quise(神の思し召しのままに)」の頭文字を合わせた造語です。実は当時のバックバンドの名前だったのですが、長すぎるから「S.Q.D.Q.」と呼んでいたんです。バンドのテーマソングでもあります。
W:軍事政権下の1978年にリリースされた『Nos Dias de Hoje』のジャケット写真は検閲で問題になりませんでしたか?
I:収録されている曲は問題になりましたが、僕が知る限りではジャケットには問題なかったようです。書かれている数字はアルバムをリリースした日です。
1973年リリースのシコ・ブアルキの『カラバール』や、1975年リリースのカエターノ・ヴェローゾの『ジョイア』等、ジャケ写が問題となって当初のデザインから差し替えられた作品も少なからず存在している。この作品は1978年リリースなのでやや緩和された時代なのかもしれない。
W:先日、YouTubeで1984年にあなたがルイス・エサとリオデジャネイロのピープルズ・バーで共演した音源を発見しました。Instituto Piano Brasileiro(ブラジルピアノ協会)というアカウントがupしていて、海賊音源ではなさそうです。ルイス・エサに憧れていたとは聞いていましたが、共演もされていたんですね。この音源のことをご存じでしたか?
I:えっ?録音があるんですか?この日のステージが録音されていたとは全く知りませんでした。本当に素晴らしい共演でした。僕はルイス・エサに憧れてピアノを始めたのですから。この日は僕と、僕のメストリ(音楽の巨匠)が共演した最初で最後の機会でした。音源が残っているなんて感動しています!大変価値のあるものです。(しばし音源を聴き、懐かしむように)ああ、彼の左手の弾き方だ。録音があるとは知りませんでした。本当に素晴らしい日でした。
W:.1990年頃ですが、あなたの曲が日本のCMソングに起用され、抽選でCDが当たるプロモーション・キャンペーンがあったことを覚えていますか?CDには「Love and Motion」、「Que Bom」、「Vitoriosa」、「Marlena」の4曲が収録されていました。最初の2曲はあなたのどのアルバムにも収録されていないようです。沢山の人がこの曲を探しています。どこかで発表しないのですか?
I:(CDを手に取り)これは貴重だね!僕も持っていないよ。(CM映像を観ながら歌詞を口ぐさむ)あとでInstagramに載せようか!
W:それでは進呈しますね。このCMに使われた「Love and Motion」はデュエット曲ですが、一緒に歌っている女性は誰ですか?
I:ヴェロニカ・サビーノです。
W なんと!30年越しの謎が解けました!
I:それは良かった。彼女はブラジルの偉大な作家でジャーナリスト、フェルナンド・サビーノの娘です。歌詞は当時の僕のマネージャーだったマリレーニ・ゴンジンが書きました(同席していた現マネージャーもびっくり!)。
W:以前サンパウロの中古CD店でこのようなCDを見つけました。クリスマス・アルバムのようですが、クリスマス曲は1曲しかなく、他の曲は全てあなたのオリジナル曲です。ほぼ全曲がピアノとキーボードによる弾き語りですが、聴いたことのないヴァージョンでした。これは単なるベスト盤ではないですよね?この作品の為に録音した音源ですか?
I:よく見つけたね。確かにそのCDは1995年のクリスマスにあわせて企業の販促CDとして録音した作品です。ヴェラス・レーベルのロゴは入れていますが一般販売はしていませんでした。
W:他に未発表曲などありますか?
I:タンバ・トリオ、もしくはタンバ・クアトロが僕のインストゥルメント曲をアレンジして録音したのですが、見つけられません。曲名もどんな曲だったかも忘れてしまいました。ただ、この曲は彼らしか録音しませんでした。どこにあるんだろう?ルイジーニョ(ルイス・エサ)が少し変わった曲を演奏している頃でした。
もう一つ、僕が録音していない曲があります。1986年か87年、フルート奏者のデイヴ・ヴァレンティンがプロデュースした米国の黒人歌手が僕の未発表の楽曲を録音しています。名前は忘れてしまいましたが、この時代の歌手です。あと、未発表曲ではありませんが、名前は忘れてしまったけどフランス人の男性歌手が「Deixa Eu Dizer」を録音しています。彼は1975年か76年にフランス語で録音しました。どうやらフランスではよく流れたそうですが、著作権料を受け取っていません。
W:未発表録音はまだ多くあるのですか?
I:はい。まだ発表していない新曲が沢山ありますよ。プロジェクトもです。エリック・ミヤシロのビッグバンドとインストゥルメンタル作品も作りたいと考えています。同じく、インストゥルメンタル作品で書き下ろしている曲が沢山あります。(新曲を)書いて自宅で録音して保管しているんです。僕は止まりません。音楽は自分にとって第六感です。なくては生きていけません。
W:現在のレーベル「ガレアォン」とは?かつてあなたが運営していたヴェラスとロゴが似ていますが関係性は?
I:ヴェラスはソニーやユニバーサルなどと同じようなレコード会社でした。僕たちは会計士に騙されて、最終的に会社を閉めざるを得ませんでした。(2007年に)ガレアォンというレーベルを再度立ち上げました。ヴィトルが唯一の共同経営者で、僕は自分の取り分をヴィトルに渡すことにしました。
W:ジルベルト・ジルやミルトン・ナシメントがステージから引退する中、あなたを始め、ネイ・マトグロッソ、アライーデ・コスタなど現役で積極的に活動しているミュージシャンもいます。これについてあなたの意見を教えて下さい。
I:自分がしていることを好きになること。僕は音楽が大好きです。作曲するのも大好きですが、最近はショーを沢山やっているのでそのための時間がありません。旅をすることも好きです。今は80歳になり、50歳の時のようにはいかず疲れることもありますが。とにかく、自分の好きなことをやっているのです。まだ自分の音楽を聴いてくれる人と共有したいと思っています。僕は聴衆とコミュニケーションをとるためにショーをやっているんです。エネルギーや感情あふれるショーを。
W:最後に、日本のファンへメッセージをお願いします。
I:私は日本が大好きです。日本のファンはとても誠実で、僕にとても優しくしてくれます。どこへ行っても良く迎え入れてくれて、自分ができる限り、これらも日本に戻ってきたいし、彼らの前で歌い続けたいと思っています。僕の意図は音楽の美しさを聴き手に届けること。僕の音楽が聴いてくれるすべての人々の役に立つことを願っています。
イヴァン・リンス
1945年リオデジャネイロ生。18歳の頃より独学でピアノを始める。1970年に国民的シンガーのエリス・レジーナがイヴァンの「マダレーナ」を歌い注目を浴びる。翌1971年アルバム・デビュー以降、MPB界を代表するトップ・アーティストとして活躍。1980年代にはクインシー・ジョーンズの手引きを受け米国音楽界に進出。阿川泰子、村田陽一、椎名林檎等、日本人アーティストとの共演も多い。度々来日している。